ABC型 松本俊一『モスクワにかける虹』

執筆者:船橋洋一2000年9月号

「シルク・ハットをかぶった番人が、いつもいかめしい制服姿で立っていて、いかにもビクトリア王朝時代をしのばせる。その横丁の中で、一番大きいと思われる建物は、ソ連の大使館であった」 松本俊一は、日ソ交渉の回想録をこのように書き出している。 一九五五年六月一日、ロンドンで始まった日本の松本俊一全権大使とソ連のマリク駐英大使による日ソ国交回復交渉の予備交渉は、このソ連大使館で行なわれた。 松本に託された仕事は、在ソ抑留邦人の帰還、漁業問題などさまざまだったが、最大の課題は戦争状態の終結と国交回復、なかでも領土問題の解決だった。松本とマリクは、正式の平和条約締結によって、日ソ間の国交正常化をはかるという「正攻法」を取ることで合意した。マリクは戦時中、駐日大使を務めていた。 松本は戦時、戦後、外務事務次官をした後、戦後初代の駐英大使となった。戦前、グローヴナー・ハウスで威容を誇った大使官邸に帰る力は日本にはなかった。そこで、ソ連大使館と同じ通りのケンジントン・パレス・ガーデンの一角に新たに公邸を買い求めた。それはソ連大使館に比べて、いかにも見劣りした。 ただ、ソ連の威圧感は、そうした物理的な構築物だけにあったのではない。日ソ交渉において、ソ連は何枚もの強力な外交カードを持っていた。ソ連は、なお一千人を超す日本人を国内に抑留していた。樺太、千島を占領していた。日本の国連加盟に対して拒否権を行使し、再三それを阻んできた。それから、北方漁業では日本人漁民の生殺与奪の権を握っていた。それに比べ、日本にはカードと呼べるようなものはない。

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