日本的経営の転機を示した二つの悲劇

執筆者:喜文康隆2000年10月号

 九月二十一日付けの朝刊一面を同時に飾った二つのニュースは、日本の経営の転機を示す歴史的な出来事だったのかも知れない。一つは、日本債券信用銀行社長、本間忠世の衝撃的な自殺。いま一つは、大和銀行に対する株主代表訴訟の判決で、大阪地裁が当時の取締役に対し総額八百三十億円近い賠償請求を認めたという判決である。 九三年、商法改正によって株主代表訴訟の弾力的運用がスタートした時、あるところで「部長から取締役になることが、課長から部長になるのと同様の出世だと素直に喜べない時代がやってくる」と書いたことがあるが、二つのニュースはまさにその証拠である。日本的エリートの挫折 本間の死は、「日本的エリートの挫折」という点において、大蔵省の崩壊に匹敵するような事件である。通常、この種の死亡記事は、遺族や周囲の気持ちを慮って控えめな扱いにするのが常だが、今回ばかりはそうはいかない。新聞各紙とも一面トップ、あるいはそれに近い形で衝撃的な死を扱った。 実際、本間の経歴を辿ってみると、特にその後半生は挫折の連続である。一九六三年に東大法学部を卒業して日銀に入行した本間は、九〇年に新設された信用機構局の初代局長に就任、九四年に普通の会社の役員に当たる理事(信用機構担当)に昇格したが、一貫して日本の金融システム崩壊の最前線に立ち会ってきた。結局は破綻の先送りにしか役立たなかった山一證券に対する日銀特融や、他の大手銀行に無駄な負担を強いた日債銀への奉加帳増資も彼の担当である。死者にむち打つつもりはないが、新たに出発する銀行のトップとして相応しいとは到底言いがたいだろう。

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