第三の開国 中曽根康弘『政治と人生』

執筆者:船橋洋一2001年1月号

 多くの日本人にとって、中曽根康弘の先進国サミットへのデビュー姿は、少し気恥ずかしく少し誇らしげな、新たな感覚だった。 舞台は、一九八三年のウィリアムズバーグ・サミットである。 首脳たちの記念撮影の場で、中曽根はホストのレーガン米大統領とサッチャー英首相の間にはさまれ、愛嬌を振りまいた。特等席である。国民の受けた印象は、「やるじゃない、やりすぎじゃない、ナカソネさん」といったところだったろうか。 G7サミットは一九七五年に始まった。日本は発起メンバーとなった。戦後の廃墟から一人前の経済大国として認められるようになったのである。ただ、国際社会で日本の顔が見えない状態はその後も続いた。その顔を国民は初めて中曽根に見た思いがしたのである。そのパフォーマンスも含めて、それはどこかバタ臭かったが、舌触りは悪くない。 会議そのものでも中曽根の存在感は目立った。ソ連の中距離核ミサイル、SS20の展開に対し、米国はパーシングIIクルーズ・ミサイルを欧州に配備するべきか、それをサミットとしてどう扱い、どう発表するかで、英米と独仏が真っ向から対立し、「蒼く冷たい空気」が流れた。 その時、割って入ったのが中曽根である。

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