「イスラエルで最もセクシーな政治家」「典型的なポピュリスト」「対アラブ強硬派」――。さまざまなレッテルを貼られ、毀誉褒貶は激しい。しかし、大衆の心を巧みにつかむことにかけてベンヤミン・ネタニヤフ氏の右に出る政治家が、今のイスラエルに見あたらないことも確かだろう。 一九九六年五月、イスラエル初の首相公選で右派・リクードから当選し、四十六歳で史上最年少の首相となったが、九九年五月の公選では左派・労働党のバラク現首相に大敗し、政界引退を表明した。ところが、昨年秋から続くパレスチナとの衝突とバラク政権不安定化による首相公選の前倒し実施の流れの中で、「台風の目」として表舞台に復帰しつつある。 イスラエル建国直後の一九四九年、テルアビブに生まれた。父親は、労働党に代表される社会主義的なシオニズム主流派からは異端視されていた修正シオニズムの理論家として知られたベンツィオン・ネタニヤフ教授(歴史学)。ヘブライ大学で同教授の過激な思想が問題となったことから一家は米国に移住し、ネタニヤフ氏はフィラデルフィアで育った。 マサチューセッツ工科大学で経営管理学などを修め、イスラエル帰国後はコンサルタント会社幹部などを経て、リクードのアレンス駐米大使(その後国防相)に見いだされ、八四年に三十五歳の若さで国連大使に就任するなど、異例の早さでリクード若手指導者にのし上がった。

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