外務省とはそういう役所

執筆者:徳岡孝夫2001年2月号

 三億か五億か知らないが、一室長の外交機密費流用くらいでオタオタするな。いまを去ること六十年、アメリカと戦争を始めようかという前の晩、仲間同士で飲み食いして翌日の指定時刻に宣戦布告文を渡せず、真珠湾攻撃の一時間後に持っていき、日本国のツラに永遠に泥を塗った。外務省とはそういう役所だ。日本人は死んでも忘れるな。 東京の外務省は海軍と詰めて時刻表を作り、攻撃開始の直前、一九四一年十二月七日(日)午後一時に宣戦布告の覚書を米側に手交することにした。長い覚書を十四部に分け、六日午後からワシントンの日本大使館に向けて打電し始めた。それに先立ち、覚書の取り扱いに関する訓令を送った。「この『覚書』を米国に提示する時期については別電するが、右別電接受の上は、訓令しだい何時にても米側に提示できるよう、文書の整理その他のあらゆる準備を予め手配しおかれたし」 にもかかわらず、当夜ワシントンの大使館員が記録するものだけで、会食が二つあった。一つは転任する寺崎英成書記官の送別会。これには奥村勝蔵書記官や電信員七名など館員の約三分の一が出た。もう一つは中華料理店チャイニーズ・ランタン(通称チャンラン)での会食。井口貞夫参事官が「忙しいだろうが、ひとまずメシにしよう。たまには皆で食事がしたいよ」と誘い、数人の書記官や官補が行った。覚書の解読・清書はそっちのけ。

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