一九五九年から一九七二年まで、田川誠一は合計十一回、中国を訪れた。最初は自民党の長老、松村謙三の秘書として、その後自民党の衆議院議員として、毎年のように覚書貿易交渉に携わった。 東京から北京へは香港経由で行かなければならないので三日がかりだった。羽田から香港までわざわざ南下して一泊、翌朝、汽車で国境を越え、深セン、そして広州へ。そこでまた一泊、それから国内線の飛行機でノロノロ北上する。 松村は、高碕達之助、石橋湛山らとともに、日中関係の正常化に政治生命をかけていた。しかし、岸政権になり長崎国旗事件が起こり、日中貿易は断絶、日中関係は再び緊張していた。日中をなんとかしたい。一九五九年十月、執念の初訪中だった。 一行は周恩来に案内され、北京の西北に建設中の密雲ダムを見学した。道すがら往復四時間、特別列車の中で二人は会談した。 周恩来は、日米安保を激しく批判した。「もし安保条約が改定されるならば、今後十年間、日本はアメリカの軍事基地となる」と改定に強く反対した。岸内閣の「中国敵視政策」を非難し「松村先生ら友好的な人々がいくら中国を理解し、友好的な態度をとってくれても、これは個人のことに過ぎない。岸信介氏は日本の総理大臣である。一国の責任者が敵視政策をとっていては問題にならない」と述べた。

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