東京都港区赤坂の高級マンションやオフィスビルが林立する中に、雑草が生い茂り、荒れ放題になっている一角があった。「カンボジア大使館」 ポル・ポト派が政権を奪取した一九七五年以来、ここは閉鎖されていた。「この光景が当時の日本とカンボジアの関係を物語っていた。外務省アジア局の南東アジア第一課長に就任した当時、私にとって、少なくとも地理的な意味でのカンボジアの存在はゼロだった」 河野雅治はそう書き出している。一九八九年夏のことである。 七月にパリで、カンボジアの当事者とすべての関係国が参加する第一回のカンボジア和平会議が開催された。フランスとインドネシアが音頭を取った。方々工作した結果、日本はかろうじて招かれたが、日本の立場は弱かった。 会議は失敗に終わった。カンボジア四派は妥協しない。カンボジア内部の怨念はなおほぐせない。彼らのパトロンたち――ベトナム、ソ連、中国――もそれを認めない。 日本のカンボジア外交の基軸となっていた「ASEAN支持」も意味を失いつつあった。冷戦が終わると、ASEANは共通の敵を失った。それはもはや一枚岩ではない。 それまで国交のないプノンペンのヘン・サムリン政権と直接接触する必要があるのではないか。

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