外務省 眞紀子ショックの実情

執筆者:2001年5月号

 通常、外務大臣には二人の大臣秘書官が付く。一人は課長級のシニア秘書官、もう一人は課長補佐クラスのジュニア秘書官である。田中眞紀子外務大臣は就任二日目に、河野洋平前外相から引き継いだジュニア秘書官の大鶴哲也秘書官(平成三年入省)の交代を官房当局に指示し、急遽、熊谷直樹氏(平成四年)が後任秘書官に据えられた。 シニア秘書官は、平松賢司秘書官(昭和五十三年)がアジア大洋州局北東アジア課長に転出、上村司中東アフリカ局中東第一課長(五十六年)が就任したが、上村氏は記者の面前で田中外相に罵倒されるなど、ストレスが原因と見られる過労からダウン、五月十日、入院してしまった。このため外務省は、これ以上の過労入院者を出さないためとして、異例の秘書官五人体制を敷いた。 三月二十六日付で駐英公使の発令を受け、五月七日に任地のロンドンに発った小寺次郎前欧州局ロシア課長(五十二年)に対する人事は、自分の与り知らぬうちに小寺氏の出発が決められたことで田中外相が激怒、小寺氏はヒースロー空港に着いたその日のうちにトンボ返りで帰国し、十日付で前職に復帰、渡邉正人ロシア課長(五十五年)は官房付となったのは既報の通りだ。「(小寺氏は)対ロシア政策のキーパーソンである」(田中外相)というのが表向きの理由だが、その背後には「小寺更迭」をはじめこれまで外務省人事に影響力を行使してきたとされる鈴木宗男自民党前総務局長への意趣返しがあるのは明らか。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。