ワシントンを去った女性二人

執筆者:徳岡孝夫2001年8月号

 葬儀が終わり、棺が数人の男に担がれて教会を出、霊柩車までの短い距離、太陽の下を行く。最後の日光を浴びる。死者が誰であれ、胸の痛くなる瞬間である。向こうの新聞は、よくその場面の写真を載せる。キャサリン・グラハムの葬儀もそうだった。 八十四だと聞いて驚いた。彼女が「ワシントン・ポスト」を率いてニクソン大統領と戦い辞職に追い込んだウォーターゲート事件の頃は綺麗に写っていたが、もう三十年近い昔である。海の向こうでも、行く川の水は速い。 自殺した夫の後を継いで「ワシントン・ポスト」の社主になったとき、彼女は四十六歳で四児の母だった。母親として一生を終えるはずだった人が、言論の自由のために時の政府と徹底的に渡り合った。 尋常一様の逃走ではなかった。ニクソンの側も応戦した。後に大統領執務室での会話テープが公開されたが「よし、それでいこう。グラハムの両の乳首つかんで引きずり回してやれ」とニクソンが言ったのを、私は憶えている。 政府部内の極秘情報を記者に漏らしたディープ・スロートは、いまだに正体が知れない。グラハムはペンタゴン文書事件でも政府のベトナム介入を果敢に追及した。 ナショナル・カテドラルを埋める会葬者の中に、ニクソンの補佐官(後に国務長官)キッシンジャーがいて、弔辞を述べた。新聞のベトナム反戦論説が最高潮だった某日、グラハムから電話で誘われ一緒に映画を観た。終わって館内が明るくなったとき、並んで座る敵味方を認めた観衆から、驚きの声が上がったという。

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