遠ざかる「オスロ合意」

執筆者:田中明彦2002年5月号

 イスラエル・パレスチナ紛争は、一九七八年のキャンプデービッドの合意以後、最悪ともいいうるほどの危機を迎えたように見える。二〇〇〇年九月の第二のインティファーダ(intifada)再発以来千百四十人以上のパレスチナ人、四百人以上のイスラエル人が殺害された。この三月だけでも、二百五十人のパレスチナ人と百二十四人のイスラエル人が犠牲となった(“Carnage in Israel, conquest in Palestine”『エコノミスト』、四月六日号)。 三月初旬には、サウジアラビアのアブドラ皇太子による和平提案がなされ、アメリカのブッシュ政権のジニ特使による調停も動きつつあるかに見えた。しかし、三月二十七日の過ぎ越しの祭りの晩(セデル=passover seder)に起こった自爆テロとその後の展開は、瞬く間にそのような希望を打ち消した。イスラエル軍が暫定自治政府領域に侵攻し、アラファト議長を軟禁した。ブッシュ政権の消極性と実質的なイスラエル支持に対する国際的批判が高まる中、四月四日、ブッシュ大統領は、テロを止めることのできないアラファト議長を非難するとともに、イスラエルのシャロン首相に対しても、パレスチナに侵攻したイスラエル軍の撤退を求め、特使としてパウエル国務長官を中東に派遣すると発表した。パウエル長官による調停の帰趨は、本稿執筆時にはなんとも判断ができないが、これが事態の悪化を食いとめられないということになると、本当に一九七〇年代以来積みあげてきた数々の和平努力が雲散霧消しかねない。

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