大事なときにミスキャスト

執筆者:徳岡孝夫2002年5月号

 誰か文芸評論家が、上手に戯文を書かないかと待っていたが、書く気配がないので私が書く。森鴎外の長編小説『青年』の主人公は、名を小泉純一といい、ただいまの総理大臣を連想させるし、そこはかとない共通点がある。 明治の小説によくあるように、名は体を表わす。この主人公も、上京して真面目に文学を志す、小さな泉から湧く清水のように純な青年である。漱石そっくりの人物を訪問したり、同郷の年上の未亡人と怪しい雰囲気になったりする。暗い森みたいな前任者と比べ、いまの小泉も政界の泥にまみれず、少し「名は体」を感じさせる。 その『青年』の中で、鴎外は面白いことを言っている。「なんでも日本へ持つて来ると小さくなる。ニイチエも小さくなる。トルストイも小さくなる」というのである。私は現代の小泉純一郎も、宗男や清美の大騒動を見やって、同じ感想を持ったんじゃないかと推量する。 いま世界は、外交官を恫喝したの、秘書の月給をごまかしたので昂奮するような呑気な世界ではない。早く中東の火を消さないと、大変なところへ来ている。 新聞記者だった私は事の大小より、世界という新聞のほとんどのページを日本人以外の人々が書き、日本人が書かせてもらえるのは地方版だけだと感じる。ローカルなニュースで騒ぐのは、ええ加減にせえよと言いたくなる。

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