架け橋 近藤妙子『北京の三十年』

執筆者:船橋洋一2002年6月号

 私が朝日新聞の特派員として北京に赴任したのは一九八〇年初めだった。中国人は外国人記者と話すことを怖がり、要人にインタビューが取れても型どおりの答えしか返ってこない。改革・開放が始まったと言っても、中国社会の「内部」は深い帳に閉ざされていた。それでも、社会の襞に触れたと感じたのが、その年の五月、北京西郊の八宝山霊場で行なわれた「王和成同志」の追悼式に招かれたときだった。その日は、中国の党・政府首脳全員が出席して劉少奇前国家主席の追悼会が北京・人民大会堂で営まれた日だった。 文化大革命中、日本人妻を持ったために「日本の特務」「反革命分子」の烙印を押され、迫害され、山西省の監獄で死んだ中国人医師の「平反昭雪」(名誉回復)の儀式である。「彼は林彪、四人組の極左路線の迫害を受けて死んだ。われわれはこのうらみを林彪、四人組に集中させなければならない」 主催者の北京市第二病院の代表者は追悼の辞をこのように締めくくった。 深い朝靄がかかっていた。哀楽(哀悼の調べ)が流れる中、妻の近藤妙子(中国名、王鶴卿)、娘の京子(同・王勝平)、それに王和成の妹、王鶴姑の三人に、白いバラを胸につけた三百人近い参列者が一人ずつ慰めの言葉をかけていった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。