「本当は自由に人と話したかった」。九月四日の辞任会見で三井物産社長の清水愼次郎が目を潤ませながら語ったこの一言が、その人柄と器量を最もよく表していた。 大企業の社長が慎重かつ冷静な発言を求められるのは当然であり、そうした様々な制約を踏まえた上で、トップとしての意向や理念を社内外に発信していくことが、現代の経営者の重要な資質のはず。証券アナリストへの決算説明会に社長自ら出席するのが珍しくもない昨今、ましてや「グローバル企業」として自他ともに認める代表銘柄だった物産の社長がこんな泣き言を吐くとは、意外感を通り越して呆れるほかない。「暗愚の系譜の始まりは六年前」というのが物産幹部現職・OBらの一致した認識。一九九六年に上島重二会長(九月末で辞任)を社長に選んだトップ人事がやり玉に挙がっている。当時の社長候補には、副社長だった上島のほかに渡邊五郎(現三井化学会長)、土川丈夫(現顧問)、福間年勝(現日銀政策審議委員)と多士済々の専務三人がラインナップされ、中でも「乱世の渡邊、治世の土川」と評された二人が有力視されていたが、指名を受けたのは「鈍牛タイプで、最も御しやすい」(当時の三菱商事幹部)とライバル商社に歓迎された上島だった。

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