戦後初めて怒った日本人

執筆者:徳岡孝夫2002年11月号

 橋本龍太郎、村山富市、野中広務はじめ無慮一万三千の日本人が、北京の人民大会堂に集うて日中の友好三十周年を祝ったという。その間も埼玉県では一晩に三件もの金庫の盗難があった。 バールで店の戸をこじ開け、商品棚を押し除けて搬出口を確保しておき、二百キロもある奥の金庫を一気に持ち出して逃げる。五分以内の早わざ。密航シナ人の一団は捕えたが、他に何グループかいるらしい。そういうことは、人民大会堂の食事中、話題にならなかったのか? 拉致は日本人の作り話だと言い続けてきた国が、突然「八人死んだ」「自殺だ」「ガス中毒だ」「墓は流れた」と言った。誰が信じられよう。だが、せめて北京での和やかな談笑の間に、誰かが聞いてほしかった。 ――「中国政府は拉致された日本人の捜索につき、北朝鮮にどんな影響力を行使してくれましたか?」 何党の誰でもいい、もしそう質問したのなら、あの身勝手な中国政府の返答が聞きたい。聞かなかったのなら、何のために北京に行ったのか、渡航目的を聞きたい。 いまは横田めぐみさんの両親ほか拉致被害者の家族にはマスコミが張りつき、いわゆるメディア・スクラムになっている。だが、ついこないだまでは、どうか連れ去られた娘のことを書いて下さいと頼んでも、耳を貸さなかったのである。

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