中東に大変動の予兆が漂っている。それは、イラク情勢が緊迫しているからにほかならない。歴史的に見てイラクは中東の要であり、イラクで戦争がおこれば、中東全体を揺さぶりかねない。 イラク研究者として内外で高い評価を得ている酒井啓子氏の最新作が『イラクとアメリカ』(岩波新書)である。アメリカとイラクの関係を横糸、石油の富のおこぼれという飴と秘密警察による弾圧という鞭によって、フセインの独裁体制が築かれる過程を縦糸にして編み上げられた、イラク現代史という壮大なタペストリーである。 これまでの議論によれば、イラクは、北部のクルド人、中部のスンニー派のアラブ人と南部のシーアのアラブ人、この三つに分裂する傾向があり、元来まとまりのない国で、フセインの独裁が終われば分裂してしまうことになる。そこでは湾岸戦争後にアメリカがイラクに止めを刺さなかったことも、分裂を恐れたためだと説明される。この分析が正しければ、選択肢として存在するのはフセインのような独裁体制か分裂である。 だが酒井氏は、アメリカや周辺諸国のイラクへの介入こそが分裂傾向を助長してきたとして、このテーゼに懐疑を示す。背景には、建国八十年を経て「イラク人」としての国民意識が生れているという認識がある。反体制派のイラク人にも共有されているこの認識は、独裁者なき民主的国家をイラク人自身の手で建設できるという主張の根拠となる。これが研究者としてのイラクへの熱い思い入れの反映なのか、あるいは冷静な分析の結果なのかは、今後のイラク情勢の展開が証明するだろう。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。