台湾(下)日本語という絆

執筆者:水木楊2003年4月号

 台北市から高速道路を二時間余り南下すると、台中県の東勢市に着く。内陸の小都市で、一九九九年九月の地震では大きな被害を受けた。そこからうねうねと曲がる山道を小一時間上り、原住民のタイヤル族の住む地域に入った。タイヤル族の人口はおよそ十四万人。九つある原住民の中でも最大の部族である。 道は狭い。車がすれ違うのがやっとである。冬だというのに、車窓からの日差しはきついほどで、道端にはブーゲンビリアが目にしみるように鮮やかに咲き乱れている。 三叉坑という名の集落に到着する。バラックのカマボコ住宅が低い軒を連ねている。ここもまた地震の被害を受けたところで、住民百四十二人のうち三人が亡くなった。バラックは政府の建てた仮住宅である。 ここで、林光耀さん(六〇)に会った。いまの肩書きは「原住民手工芸品生産合作社理事長」。本来は果樹を栽培する農家だったが、建てて二年の家を潰されただけではなく、三百本あった柿の木と二百本のみかんの木を土石流が一気に運び去っていった。何もかもなくしてしまったいまは、手工芸品の生産と政府からの補助金とでやっと暮らしている。 しかし、林さんは明るい笑顔で筆者を迎えてくれた。背の高さは百五十センチちょっとだが、褐色の肌と引き締まった筋肉はいかにも精悍である。

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