SARS消滅 もういいの?

執筆者:徳岡孝夫2003年7月号

 新聞の一面から、やっと新型肺炎(SARS)のニュースが消えた。われわれは怖い病気を封じ込めたのだろうか? 北京では患者の増え方がヒトケタになった、それが何日続いたと、減った人数だけを喜んだ。われわれは北京市民と共に喜んでいいのか? 十四世紀のヨーロッパを潰滅状態に陥れ、当時の全文明世界で六千万から七千万人を殺したというペストは、ネズミとネズミノミの媒介だったが、ノミに吸血された人間が感染源になってからは、咳などの飛沫感染によって伝播した。今回の肺炎と似ている。 ボッカッチョは、その惨状を『デカメロン』の冒頭に描いた。現代人では米作家バーバラ・タックマンが『遠い鏡』に書いている。後者によると、最初ロシアの被害はさほどでなかった。イタリアに上陸したペスト禍は、ロシアに達して止まったかに見えた。ロシア人は(今日の北京人と同じように)大いに喜んだ。 早計だと知ったのは、厳しい冬が過ぎて春が来てからだった。ネズミが動き出すのと同時に、ペストはヨーロッパの南半分を侵したのと同じ勢いでロシアを呑み込んだ。 いま東アジアは、肺に負担の少ない気候になり、新型肺炎は下火になった。日本は自衛に成功し、日本人の中でパニックに陥ったのは、台湾の医師が日本で買春したかどうかを記者会見で追及した新聞記者一人か二人だけだった。だが昨年十一月に始まったSARSの一撃は、五カ月で終わったわけではあるまい。いま安心すると、十四世紀のロシア人の轍を踏むかもしれない。

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