小泉政権における財務省人脈のキーパーソンが武藤敏郎日銀副総裁であることは衆目の一致するところだ。上にも下にも同期にも、彼の地位を揺るがしそうな人物はいない。小泉首相の直々の指名を受けて日銀副総裁に就任し、五年後には総裁への就任も見込まれるとあって、武藤の影響力はさらに高まっていきそうな気配だ。「花の四十一年組」と言われた同期の中で、もともと武藤は優秀ではあれそれほど目立つ存在ではなかった。同期にはあの中島義雄・元主計局次長や長野厖士・元証券局長などの「スター」がいた。しかし、彼らはスキャンダルで役所を去り、残ったのは派手さとは無縁の武藤の方だった。 一九九八年の大蔵省官房長当時には、大量の処分者を出した接待汚職の責任をとって前職の官房総務審議官に降格。しかし、一年後には何事もなかったかのように主計局長に二階級特進した。この過程で小村武次官が辞任に追い込まれ、実力派として知られた三期下の杉井孝・銀行局審議官も「接待魔王」との汚名を濯ぐ間もなく省を去った。関係者の間には「当時の自民党首脳と武藤が結託した陰謀」との見方がいまだにくすぶる。 しかし、「人事の武藤」の真骨頂はむしろ細部に宿る。九八年、官房総務審議官に降格後も人事を差配する「隠れ官房長」を続けていた武藤は、一つのタブーを破った。同期の中では「端パイ」で、九六年に大蔵省を去り損害保険料率算定会副理事長というささやかな天下りポストに納まっていた森昭治を、金融再生委員会事務局長に呼び戻したのだ。これが、「いったん外に出た官僚でも呼び戻す」前例となり、OBたちに対しても武藤の影響力を高める結果となったのだ。森はその後、旧大蔵省の権益を守る「抵抗勢力」として存分な活躍を見せる。ただし、金融庁長官を退職したら「使用済み」。この六月に天下った先は、廃止が決まっている住宅金融公庫の副総裁ポストだった。

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