ゴーン革命の先鞭をつけた石原俊の死

執筆者:喜文康隆2004年2月号

「『近代の超克』は、いわば日本近代史のアポリアの凝縮であった」(竹内好『近代の超克』)     * 元旦に届けられた新聞各紙のページを繰っていて、最も心に残ったのは「日産元社長の石原俊氏死去、九十一歳」という、日本経済新聞に掲載された一面のベタ記事だった。 ベタ記事にニュースあり。石原死去の記事は、元旦向けに「作られたニュース」の傍らで、人間の生と死を刻むドラマは正月も間違いなく進行していることを教えてくれた。そして、石原の死は見事に日本企業の転機を象徴している。 元旦早々から各種メディアに登場して、企業に留まらず日本システムそのものの改造にまでアドバイスするカルロス・ゴーン。彼はいまやスーパースターである。 ゴーンの四代前の日産社長だった石原俊は一九七七年から八五年まで社長、八五年から九二年まで会長をつとめた。この間、経済同友会の代表幹事をつとめるなど、日本を代表する財界人の一人だった。しかし、ゴーンの就任以降は、会社に出入りすることさえ事実上禁じられていたという。 四十九歳と九十一歳。四十歳以上の年齢差があるこの二人の経営者の評価は天と地ほど違う。しかし、石原俊は経営者として無能だったのだろうか。そんなことはない。石原には先見性があり、同時にいまの言葉でいえば、「リスクをとる」ことも出来る経営者だったからだ。

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