藤田田、トリックスターの静かな死

執筆者:喜文康隆2004年6月号

「一体君は諷刺画を画くつもりかい。それとも英雄物語を書くつもりかい。この二つは両立しない筈だがね」(三島由紀夫『青の時代』)     * 四月二十一日、日本マクドナルドの創業者藤田田が亡くなった。享年七十八。新聞に訃報が掲載されたのは、その死から五日間が経過してからだった。「桜の花が散るように静かに退きたい」という本人の思いとは裏腹に毀誉褒貶の相半ばする人生だった。 デフレを読みこんだ徹底した価格破壊戦略と、マクドナルドの一万店宣言。突然のインフレ宣言と価格戦略の失敗。そして米国マクドナルド本社との確執と会長退任劇。 いま振り返れば、二〇〇一年の日本マクドナルドの株式上場は、藤田田の波瀾万丈の人生にとって、最後の華であり、そして衰退の前兆であった。そのことをだれよりもわかっていたのは藤田田だった、と思う。悪名さえも活用する男 藤田田ほど、経営者としての成功を、財界から徹頭徹尾無視され、軽視されてきた人はいない。 戦後まもなく、彼が東京大学法学部に在学中に関わった『光クラブ事件』による犯罪の臭いと、『ユダヤの商法』という彼の著書に象徴されるような拝金主義肯定の思想。成功後もそれを否定しようとしない行動。それは戦後民主主義を支えてきた「自由と平等と公正」というキャッチフレーズからは異端であり、誇り高き東大法学部の同輩にとっては恥だった。

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