外交官だったルーベンスがいま再評価される

執筆者:大野ゆり子2004年6月号

 当世風の表現でいうと、ルーベンスはあきらかに「勝ち組」である。大画家でも、彼の同時代人のカラバッジョはテニスの試合がもとで口論のあげく相手を殺してしまったし、レンブラントは妻子に先立たれた後、四十代で破産状態に陥り、経済的には不遇の人生を送った。それに比べてルーベンスはヨーロッパきってのサラブレッドである。フランドルの貿易都市アントワープの助役を務めた父をもち、ドイツに生まれる。早くから画才を発揮してマントヴァ公国の宮廷画家となり、独、伊、仏、蘭、英、西、ギリシャ、ラテン語の八カ国語を自由に操り、洗練された社交術をもつ彼のところには、スペイン、イギリス、フランスの宮廷や富裕層から、肖像や祭壇画などの注文が殺到した。 その語学力、顔の広さを買われて、ルーベンスは画家と同時に本職の外交官としても活躍するようになる。アントワープの広大な邸宅内には工房が設けられ、十五人ほどの弟子がルーベンスの意向を汲みながら制作した作品の数は約二千。フェルメールやレオナルド・ダ・ヴィンチが生涯で残した絵画がおよそ三十枚であることを考えると、驚異的な数である。 彼を襲った不幸といえば最愛の妻の死であった。「この不在は二度と埋まることはない」と嘆いたルーベンスだったが、その四年後、三十七歳年下で、当時十六歳の少女と再婚している。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。