「商人―実業家―資本家―という順序を追って、その次に出てきたのがいま大変人気のある経営者という名前といってよかろう」(笠信太郎『“花見酒”の経済』)     * 六月二十六日付の新聞各紙に載った『UFJ、国際興業の再建計画を見直し』というニュースを読みながら、国際興業とともに、小佐野賢治が歴史の彼方に消えつつあることを実感した。 記事には『帝国ホテル株売却、創業者一族の資産処分も』ともある。帝国ホテル会長の座は、政商と呼ばれ、数兆円の資産家とは言われても、ついにただの一度も経営者と呼ばれることのなかった小佐野が、死の直前にたどりついたポストであった。もし彼が、ソフトバンクの孫正義や日本電産の永守重信がもてはやされる現代に生まれていたなら、これほど“不当”に低い評価に甘んじることはなかったかもしれない。 小佐野の歴史を振り返ると、まさに波瀾万丈、そしていまで言うM&A(企業の合併・買収)の歴史である。 旧円封鎖直前の一九四五年(昭和二十年)、破格の値段で箱根の強羅ホテルを東急グループの五島慶太から譲り受けたのをきっかけに、翌年、同じく五島から、現在の国際興業バスにあたる東都乗合自動車を買い取り、ホテル・運輸事業への野心を固める。その後は、六〇年代に山梨交通会長に就任し富士屋ホテルの経営権を握り、十和田観光電鉄買収、さらに花巻温泉を手中に収める。七〇年代に入ると、シェラトン・パレスホテル、シェラトン・ワイキキホテル、ロイヤル・ハワイアンホテル、シェラトン・マウイホテルなどを矢継ぎ早に取得し、国際的なホテル王としての地歩を築いていく。

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