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林さんがこのレポートを書いたそもそもの動機は文中述べられているように「いち自衛官の暴言をもってクーデター云々と話を飛躍させるとは、国政に与る国会議員としての知見の程度も如何なものだろうか。」という懸念を表されたのだろうと拝読しました。そうした懸念は一人の自衛官、一人の国会議員にかかる特異の問題ではなく、日本人の深層心理に深く巣くっている感覚に根差す問題提起でもあります。日本人の深層心理に深く巣くう感覚とはnakaさんが指摘された「私達日本人の歪んだ安全保障感覚」というものです。もっと辛辣な言い方をすれば、安全保障感覚の欠落とでもいうべきものでしょう。安全保障や防衛という言葉に対する生理的拒否反応に巧みに付け入った心理操作が政治の名の下に行われています。外敵の存在には無頓着、しかし内政上の政敵打倒には執拗に情念を燃やす政治の歪みです。政敵を打ち負かせば安全保障上の心配は消え去り、平和は自ずとやってくるというあたり歪みは度を越しています。こうしたことがまじめに国会議員の間で議論されているのですから、国会議員は務めを果たしていると言えるのでしょうか。
さて、自衛官の資質が厳しく問われると同じように、国会議員の資質も厳しく問われるべきです。選挙がそのための仕組みとしてあるのですが、もっと日常的に、直截的に具体的な問題の一つひとつについての国会議員の言動評価をする仕組みが欲しい。民進党の小西洋之参院議員はそのためのヒントとなっています。国会議員とて暴言は許されないでしょう。的外れの質問、議論は暴言に近いものです。国会論戦は議員の資質を正直に表します。政府答弁と同じように、質問に立つ国会議員の勤務評価の仕組みが欲しい。相手に対する刃は同時に自分に向けられた刃でもあると意識すれば、不勉強の国会議員と言えども資質を高めることに関心を持ち国会での論戦のレベルは高まることになるでしょう。
隠蔽問題にしても、暴言問題にしても、なぜ隠蔽や暴言が生まれたのかと考えることが大切です。政権が悪い、上司の監督の仕方が悪い、教育指導の在り方が問題だと片付けてしまっては問題の核心に迫れません。ましてクーデターの可能性まで飛躍させてしまっては何事かいわんやです。暴言は許容されるものではありません。これは自衛官に限らず、政治家についても言えることですが、当該自衛官と小西洋之参院議員の間でどのようなやりとりがあったのか聞いてみたいものです。特に、小西議員の何を指して「日本の国益を損なう」と不満を口にしたのか。これに対して小西議員はどのように応対したのか。国会議員に無礼であると怒っただけなのか、それとも急所を突かれたことに怒り心頭に達し国会議員に対して無礼者であろうと反応したのか。両者とも言いたかった本音があるはずです。その裏には「国益」をめぐる認識の違いがあったように思います。何が国益か、行政の上に立つ政治家にはこのことについて行政(自衛隊を含め)を説得するだけの力量が求められるとも言えましょう。これがなくしてシビリアン・コントロールは形だけのものとなってしまいます。
シビリアン・コントロールの本筋からは少し脇道に逸れますが、気になっていることを述べたいと思います。
それは「戦闘」という言葉の意味と使い方についてです。これは日報問題の背景に深く関係しているように思われるからです。自衛隊の海外派遣は「非戦闘地域」であることが前提条件となっています。法理論的には自衛隊が派遣された地域は「非戦闘地域」でなければなりません。そうでなければ自衛隊の派遣は法的根拠を欠くことになり、PKO活動の前提条件が崩れてしまうからです。派遣法はある意味PKO活動が入りうる余地を設けるための妥協の産物として成立したものとも考えられます。「戦闘地域」という言葉の意味に含みを持たせ、立法上、法解釈上の言葉の定義として処理することで、政治家や法律家の考え方との整合性を図ったのが実態の姿ではないかと考えます。
おそらく現場の自衛官たちが「戦闘」という言葉で語る状況は政治家や法律家が考える戦闘という言葉とは違ったニュアンスではないかと考えるのが自然です。重複するところは多いけど、完全重複ではない。おそらく法学論争における戦闘と兵法論争における戦闘は同じものではない。むしろ同じものとするところに無理が生じ、議論の行方は非論理的になってしまうと憶測するものです。つまり現場の自衛官たちに政治上の妥協の産物として誕生した派遣法上の役者として演ずることを求めるのか、現場でPKOの遂行者としての役割を求めるのかの違いです。その抱き合わせの無理が日報隠しという非常識な形となって現実化したものではないかとも推測します。
現実に目をつぶりあるべき法の理想に現実を合わせようとすることによる失敗は、歴史上の教訓としてきました。戦闘云々という言葉遊びではなく、現実を直視したPKO議論が必要ではないでしょうか。
クーデターの可能性について真剣に語るのであれば、林さんが指摘するように起こりうる条件の一つひとつについて検証し、その目が我が国の現状に照らしあるのか否かを論じなければ実のある議論にはなりません。そのためにはある意味専門的知見が必要です。与野党の議員を含めて我が国の政治家の皆さんは安全保障や軍事についての専門的知識をどれほど持ち合わせているのか疑問を感じています。政治家の素人レベルの議論は聞きたくありません。少なくとも自衛官とは対等に議論できる基本的な知識は身に着けておく必要があるでしょう。そうでなければプロフェッショナルの議論にはなりません。プロフェッショナルの議論ができなくて、どうしてシビリアンコントールの担い手として政治家としての務めを果たすことができるのでしょうか。
我が国の政治家の議論の仕方は、あまりにも情緒的であり、感情的過ぎます。国民の心情に訴え、味方につけたいう政治家としての気持ちは理解できますが、そこにとどまっていたのでは政治は前進しません。政治が前進しないところではシビリアンコントールという言葉は空しく響きます。
国防の矢面に立たされる自衛官の身になって考えた場合、国会議員は彼らの務めや仕事を理解し、支援してくれていると映っているでしょうか。もしそうでなとするならば、彼らの目には頼りにならない存在と映るかも知れません。そうしたとき脳裏にクーデターという言葉が息を吹き返さないとも限らないのです。それこそ危険な兆候です。そのような環境を政治家はつくってなりません。
クーデターの可能性という問題提起は意味はあります。しかし、大臣や統幕長など要人の責任追及の問題と安直に考えるようではせっかくの問題提起の意義は死んでしまいます。政治家の皆さんにはプロフェッショナルとして真剣に議論して欲しいのです。
記事:あえて言う「やはり土俵は女人禁制」 2018年05月09日13時05分
歴史を振り返って「女人禁制」の原点を探ることは大事なことで、その意味でこのレポートの着眼点は大きい意義があると思います。
その上で私の考えを申し上げれば、修験者の「験競べ(相撲)」の要素が取り入れられ、女人禁制が定着したという経緯をもって今の時代における女人禁制の論拠とすることは弱いように感じます。
本来太陽神は男神であったが、藤原氏が実権を握ると神道を改変し、没落した旧勢力の一部は山に逃れ、アウトサイダーとなって古い信仰を守り、神仏習合という新たなスタイルが確立しだのだ。そして、修験者たちは山の中に「伊勢内宮(ないくう)のアンチテーゼ」を用意し、豊穣をもたらす女神を崇拝するようになったとしています。嫉妬する女神への畏れが相撲における女人禁制の原点なのだとしています。ここには歴史における倒錯があるように思います。歴史の倒錯とはそれまでの常識がひっくり返されてしまうことで、それまでの常識が永劫不変のものではないことを語っています。そのように考えると、女神を崇め、女性を大切にしてきたという太古の日本人の思想も、今は当時とは違った形で表れてもおかしくないように思われます。相撲の女人禁制については今日どう考えるべきなのか、私たちに突き付けられた課題と言えましょう。当初の女人禁制の思想が今人々の頭の中から薄れてしまったということも時代の要請とも言えなくはないでしょう。私たちは既に現代という当時から見れば歴史の倒錯の中に生きているとも言えます。つまり、歴史の経過は経過として学びながらも、再考すべきときに来ていると言えそうです。太古の日本人は彼らなりに女神の嫉妬を招かないようにとの配慮をしつつ、豊穣の神を大事にしてきました。女神すなわち女性を今日はどう考えるべきなのでしょうか。
(続き)
~ ~ 「融和」戦略が一定の効果ありとみれば、北朝鮮は対米交渉に大きな手ごたえを感じているかも知れません。
板門店宣言が歴史的転換点になって欲しいという大きな期待を込めたレポートのように思います。詳細な分析とそれらを裏付ける事例を拾い並べることで、この期待は本物らしいと平井さんは考えているように拝見しました。このことに率直な感想を述べさせていただければ、今回の南と北の首脳会談の狙いがまさに「融和の演出」にあったことと同じように平井さんの期待も「融和」が本物であって欲しい、将来の融和にぜひつながって欲しいものだとの期待、厳しい言い方をすれば、期待先行の感が拭えませんでした。
文中、”残虐な独裁者なのか、率直でユーモアのある指導者なのか、どちらが金党委員長の本質なのかまだ分からない。しかし父親と同じように、金党委員長もまた南北首脳会談でイメージチェンジを図ったことは確かだ。”金委員長の人柄に関連付けて記述したくだりがありますが、北朝鮮の脅威は金党委員長の人柄云々からくるもの以上に北朝鮮という、私たちから見ると、歪な国家体制から派生していることを考えると、トップの人柄云々に目を奪われすぎることに違和感を感じざるをえないのです。これこそが「融和の演出」の罠であると懸念するものです。南北問題の本質は体制の在り方をめぐる対立なのです。それが民族や家族を分断し、今日にいたっています。この本質から目を背けては南北対立の実態は見えてきません。その意味で、うわべだけの融和と平和に目を奪われての状況分析と見通しの恐ろしさを感じてしまいます。北朝鮮の本音は一貫して体制の維持にあります。今後も変わることはないでしょう。否ないと考えるべきでしょう。この点を軽視した場合は、これまで辿った道を再び辿ることになる可能性は極めて大きいと考えておくべきです。ディールを得意とするトランプ大統領ですから、かえってこの罠に落ち込む危険性は大きいと見ておく必要もあるように思います。「融和」戦略が一定の効果ありとみれば、北朝鮮
トランプ政権の迷走劇は一向に収まりそうもないですね。政権内の路線対立があってのための迷走なのか、それとも基本となる理念や長期的視野を持たない政権に必然的に伴う迷走なのか、理解に苦しみます。予測不能というのがトランプ政権についての共通語になっていますが、外部からトランプ政権を予測しがたいという意味ではもちろんですが、政権内部から見ても予測不能というのではチームとしての仕事をする基本ができていないと言うべきでしょう。ホワイトハウスはトランプ氏による個人商店に過ぎないのか。大統領はオーケストラの指揮者のようなもので、ホワイトハウスはもとより行政、そして国をまとめていく力量が求めらます。各パートがしっかり演奏技術を持つと同時にハーモニーがなければなりません。トランプ政権はハーモニーどころかノイズの集合体です。
それにしてもトランプ大統領のプーチン氏への傾斜は異様です。個人的に波長が合うというだけでは説明が尽きません。お互い国家という巨大な利害共同体を背負う立場にあるわけですから、好き嫌いの感情レベル問題ではありません。緻密な政治上の計算に基づく高度な政策判断だとも見えません。それとも仮に2016年の大統領選挙で支援してくれたことへの恩義を感じる心情が今も生きていることの証左なのでしょうか。だとしたらある意味見上げたものだと言えそうですが、それは私企業の経営者としての仁義であり、公人としては到底許されるものではありません。
こうした人物が超大国アメリカの指導者的立場にいることは、ロシアや中国のように権謀術数に長け虎視眈々と覇権拡張をもくろんでいる国にとっては千歳一遇のチャンスと映っていることでしょう。
記事:米英仏「シリア爆撃」は国際法違反なのか 2018年04月29日20時24分
自国内の難民は"難民でない"として当初国連難民高等弁務官事務所が保護に消極的であったものを緒方さんががんばって保護する方針に変えさせたという話を思い出しました。おそらく今回のシリアに対するミサイル攻撃の正当性について理論化道半ばといった状況なのでしょう。不条理なのはシリアそしてそれを後押しするロシアにあると思います。各国その論拠付けは様々でも多くの国がロシアに共感しなかったのはそうしたことが根底にあるように思います。テロ対策という言葉が濫用気味であると同じように人権という言葉もその曖昧さの故の危うさはあるかも知れませんが、現状に目を向けると人権、人道という概念がもっともっと大手を振って歩いてもらってもいいような気がします。
共産中国を礼賛した我が国の進歩的文化人をこうまでバッタバッタと切り刻む当り痛快極まります。熱病に取り付かれていたとしか言いようがない当時の知識人の頭な中を見る思いで、恐ろしくもあります。
そう言えばつい最近も中国にまで出向き自分の国を悪し様に訴え大いに歓迎された政治家がいました。総理まで上り詰めたその人のイメージはまさに当時の知識人のイメージと重なります。
中国みそこないの歴史は決して過去のものではなく、今もうごめいているとの実感を深めています。
ジョン・ボルトン氏が大統領補佐官に指名された理由を、大統領との相性、情報発信力の強化、政策の同質性の3点で説明されているのはとても分かりやすいと思います。問題はトランプ大統領とどこまでうまくやっていけるのかということですが、この点、トランプ大統領は、政策について一貫性を欠いており、整合的な原理や原則で政策を実施しているのではなく、その場しのぎ、衝動的に対応することが決して少なくないということから、主義主張一貫のボルトン氏との足並みに狂いが生じ、トランプ大統領あるいはボルトン氏のいずれかが耐えきれず不仲になる可能性は決して小さくないと言えるでしょう。そのとき他者のアドバイスを聞くことが苦手なトランプ大統領は「誰が雇い主か」とこらえきれずに爆発してしまう姿が想像できます。ボルトン氏が客人として接するのであればある程度の自制が働くのでしょうが、身内の一員となり共に過ごす時間が長くなれば不仲の可能性はさらに高まりそうです。
ボルトン氏と言えばイラク戦争の主戦論者として有名です。邪悪な敵は圧倒する軍事力をもってすれば押しつぶすことができると単純に考えているようですが、イラク戦争の戦後処理の無策ぶりを見ればその主張がいかに的外れであるかがわかります。今後、対イラン、対北朝鮮の対応でも同じ轍を踏むことになるのではと危惧しています。問題を単純視するという点ではトランプ大統領も同じです。メキシコとの間に壁を設置することから始まり、移民規制、さらには最近の鉄鋼、アルミ関税に至るまで打ち出す政策にはいずれも長期的視野が欠落しています。歴代大統領ができないことをやるのだと得意げに語りますが、そうした自負とは裏腹に将来に大きな問題の根をまき散らしているだけのようにも見え、また、いまだに満足な政権体制を確立できない姿からトランプ大統領には大くは期待はできそうにないとの感を深めています。
首脳会談失敗なら米朝「電磁パルス」合戦の可能性ありということですが、電磁パルス合戦も実質的には戦争突入であることには変わりはなさそうです。首脳会談失敗の帰結として電磁パルス合戦の可能性が高まるというより数式も、電磁パルス合戦を回避するためには首脳会談を失敗に終らせてはならないという数式がどれだけ双方の頭の中にあるのか。つまりそうした理性が米朝首脳の双方でどれだけ働くのかについて考えてみると、北朝鮮の方は首脳会談成功という果実には目をつぶることはできても核の放棄という最終カードを手放すことは到底考えにくい。他方トランプ大統領の方はといえば首脳会談成功という美味しい果実は喉から手が出るほど欲しいに違いないので、目前の果実を前にしてにしてどれだけ安易な妥協を思い止まることができるか、そして会談決裂の場合でもどれだけ冷静さ理性をもってその後に対応することができるのかが最大のみどころであるように思います。安直に北朝鮮の会談呼び掛けに飛びついたトランプ大統領の即断が電磁パルス合戦という危険性を現実レベルまで高めてしまったとも言えそうです。また会談決裂イコール電磁パルス合戦開戦と世界を震撼させるほどトランプ戦略は危ういところを歩いている実態も見せつけられた思いです。
これほど身も心も穢れた話はほかにあろうか。その渦中の人が大国アメリカの大統領というのであるから驚きである。穢れたというのは、単なる痴話話というレベルを超えている。人間性を愚弄し、金と権力で覆い隠そうとする醜さが滲み出て聞くに堪えない、見るに堪えない。大統領に聖人君子であることまでは求めないまでも、並みの人の節制くらいは持って欲しいと思う。大統領という人に多くの人に感動と勇気を与えるような人であって欲しいと願うのは高望みであろうか。歴代大統領は、形は様々でもアメリカ国民はもとより世界の人々の心を動かすような知性と力を持ち合わせていたように思う。しかるにトランプ大統領はどうか。
法廷闘争の結果がどうなろうとも、こうした穢れた話が次から次への世界を駆け巡るような状態は決して健康とは言い難い。任期中、私たちはこうした話に延々と付き合わなければならないのか。トランプさん、もうそろそろいい加減にしてくださいと言いたい。
それにしてもロシアがこれほどまでにaggressiveな行為を繰り返すのか不可解です。プーチンが、と言うべきなのでしょうか、それともロシアという国がと言うべきなのでしょうか。それはこれまで辿ってきたロシアという国の歴史の中で培われた体質から出てくるものというべきなのでしょうか。いずれにしても冷戦の時代ならともかく、今日においてもなお他国の中に深く潜り込み、不法行為や選挙干渉などの手段を用いて自らの影響力を行使したいという執念みたいのものがあるように感じられて非常に恐ろしく思います。
ロシア、中国、北朝鮮に共通することは、言論統制と強権の発動によって国民の意識を一方向に向かわせ、そうでもしかければ国としてのまとまらず、国が成り立たないと本気で考えていることです。特にロシア、中国の場合、”覇権”の拡大には並々ならぬものがありそうで、19世紀に西欧列強が辿った歴史を周回遅れで歩んでいるようでもあります。
欧米による対ロシア制裁ではそれぞれの国の個別の利害関係によって温度差はあるものの、何らかの対応策を講じなければ、自分の国の根幹が崩れかねないという危機感もあるのではないでしょうか。もちろん目先の利害に即して対応を考えることは重要なことですが、それだけにとらわれていては自国の末が案じられるという思いも各国首脳の頭の中にはあるような感じもします。
佐川証言をめぐる与野党そしてマスコミのはしゃぎぶりを見ていて、映画「羅生門」(原作は芥川龍之介の小説”藪の中”)を思い出してしまいました。一つの殺人事件について3人が三者三様の証言をする話です。それぞれの話の中身は異なり誰の話が真実を言い伝えているか分からなくなるというのが話の筋です。この3人、それぞれに事件の進行にかかわっており、利害や主観的な感情を抱き、それらが微妙に絡み合って語っている。聞いているものにとっては事件の真相は”藪の中”というわけです。
佐川氏は決済文書書き換えの中心的な関係者です。その佐川氏から書き換えの核心に迫る証言を期待することはそもそも無理筋の期待だと考えるのが常識のように思います。まして佐川氏の責任問題になりかねないことです。客観的な証言を得られることは難しいと考えるべきでしょう。籠池氏についても同じことが言えます。この二人の証言だけで疑惑が深まったとか、疑惑が晴れたとか騒ぎ立てることあまり意味があるようには思えない。すべては藪の中なのです。
真相究明というより政治ショーとして見る方が合理性があります。世論はどう見ているのか。これはイコール、何が真相を語るものではありません。野党としては安倍政権にどれだけのネガティブメージを与えることができたか、与党としてはどれだけ守ることができたか。それだけの意味を持つ政治ショーです。政治ショーは勝ち負けの世界です。国民がこれをどう見るかは興味深いことですが、そこからは公文書書き換えという不祥事、国有財産の不適切な管理処分という不祥事から何を学び、今後に生かしていくということでは大きな収穫は期待できません。こうした政治ショーから与野党とも卒業すべきでしょう。
記事:連載小説 Δ(デルタ)(最終回) 2018年04月05日16時00分
この連載は、途中までは1回ごとにそのつど読んできましたが、後半は引き込まれるように一気呵成に最後まで読み切ってしまいました。平穏な毎日をくらす私たちにとってデルタのストリーは小説や映画に出てくる別世界での出来事のようにも思われますが、待てよ、東北大震災とそれに続く原発事故では想定外のことが現実に起こったではないか、それまでは起こることはありえないと思い込んでいてはいけないと改めて思い起こしています。
それにしても、政治に携わる人々の間では国政の最優先事項をどのように考えるかについて様々な価値観、考え方があり、それが時には重大な局面での執るべき選択肢の判断において決断を鈍らせ、当座は良かれと思われた判断でも、長い目では裏目になりかねないという危険性は常に伴っているのだということに気づかされます。昨今の政治状況を見るとよていにそのように思ってしまいます。
外務大臣の田所が中国への気遣いから総理の指示に異をとなえ、また、センカクから逃走しよとする2艘のボートへの攻撃について異を唱えるまでなく躊躇して、自分は自衛官ではないからと逃げる官房長官の井手に象徴されるように”自国の主権を守る”ことについての戸惑いのようなものが垣間見れて考えさせられます。こうした戸惑いは日常の平穏なくらしを享受している私たちの心のうちに深く巣くっているように思います。中国に2艘のボートに対する実力行使を許容することこそ、センカクの海が中国の海とされてしまうことを認めることになるのだぞという総理の苦渋の判断と言葉から国政を担うトップとしての決断と勇気を思います。改めて平和、平和と唱えることの言葉の空疎さを指摘しているようでもあり、深く考えさせられるくだりです。
大統領選挙では強いリーダーを演じ、対立候補を強権で押さえ込むことに成功し高得票を獲得したプーチン、策士であることを自認し自信満々のプーチンですが、今回の欧米の対応に関してはどうも読み違えたらしい。これは大変興味深いことです。強いリーダーを演じ続けなければ我が身が持たないプーチン、その結果、欧米との決定的な対立という瀬戸際に自らの身を置くことになってしまったプーチン、強権的外交に対する反発が以外に大きいということを改めて感じているのでしょうか。こうした矛盾に直面したプーチンはこれから先どのように対処していくのでしょうか。ますます強権依存症が進行することになるのでしょうか。
北風と太陽の寓意が暗示する先にはプーチン外交の限界が待っているようにも思います。ぜひそうなって欲しいという願いを込めて。
アメリカでさえトランプ大統領の登場によってプーチン流強権外交姿勢が重用されつつある今日です。北風と太陽の寓意の結末が現実のものとなることを祈っています。
足立さんのトランプ大統領についての分析を毎回興味深く読んでいます。特に「相性」の重視と「情報発信強化」の狙いと政策の「同質性」の重視の3つに行き着かれたというところに大いに共感しています。大統領に就任して1年もかけてようやく自分は何をすべきなのかに辿り着いたと言いようがなく、そのために必要な体制、手段をどのように構築すべきなのか今ごろになって気づいたのか。しっかりした信念も持たずにこの1年放浪していたのかと言わざるを得ずそのお粗末さにあきれています。
相性の良さを求めるのは裏返せば快適さの追求でもあります。複雑で根気が求められら外交、内政に堪えられないと告白しているようなものです。また、情報発信強化への傾斜は、売れるものはどのようなものでも商売の種にするという、いわば社会における会社としての存在意義と使命感を具備しない私利私欲の企業でしかないことを公言しているようなものです。そして同質性については足立さんが指摘しているように独裁政権に通ずる危うさと脆弱さです。結論としてはやはりとんでもない大統領が誕生してしまったとの思いを否定できません。
その事実はようやく巨大な氷山の水面下から発掘されようとしているが、国務長官の更迭やホワトハウス内のスタッフの解雇などの後、モラー特別検察官が同じように捜査を続けられるならである。と最後を結んでいる当たりは青木さんの常軌を逸したトランプ観をほのめかしているようで凄みを感じます。
いずれにしても早晩ロシア疑惑の全貌が明らかになっていくことが待ち望まれます。
レックス・ティラーソン米国務長官の電撃的解任、重大政策課題について閣僚の説得もできないトランプ大統領の交渉術とはどのようなものか。剣をかざして言うことを聞かなければ剣を振りかざすぞと言わんばかりのとしか考えつかない凡人にはトランプ大統領が目論む米朝会談はとても危ういもののように感じられます。ポンペオ氏の配置がそのためのものだとすればトランプ外交はなんと刹那的なのでしょう。
片や韓国の文大統領、南北会談を政策目標としているが、会談の先にあるものはなにか。成り行きまかせなのか?
そうしたトランプ、文とも同床異夢。共通するのは支持層への"受け"だとすれば事態は一層複雑混迷に、そしてより危険な状態になるのではないかと心配しています。

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