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投稿者:
decky
2013年06月17日11時23分
壬申の乱(672年)の勃発に際して大海人皇子が四日市から桑名への途次、トホ川を渡るとき、東方海上に昇り来る太陽神を遥拝したと記されていますが、あれは男神たる太陽神を遥拝したものと解釈できます。 伊勢国の一之宮は「神宮」ではなく椿大神宮であり、その御祭神は猿田彦神ですから、間違いなく(間違えようも無く)男神さまです。
この渡河のとき、大海人皇子に随行していたウノノサララヒメミコ(のちの持統)も、同様に太陽神(男性神としての)を遥拝したはずですが、なんと、その太陽神を18年後には自身の即位に合わせて「女神」に摺り替えてしまったのですね。
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史
投稿者:
史郎
2013年07月14日16時09分
天照大神は女神なのか?について、意見を述べさせて頂きたいと思います。
二人いた天照大神
正史とされる記紀のうち、古事記は「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は天之御中主神。」、
日本書紀は「天地が生まれる初め・・・天地の中に一つの物が生じた。・・それは神となった。名を国常立尊と言う。」・・とあります。
一方「竹内文献」「先代旧事本紀」「ホツマツタヱ」などの古史古伝にも、それぞれ天地創造がありますが、「竹内文献」には、 ・天神御系譜(神代七代) ・神皇御系譜(皇統二十五代) ・鵜草葺不合天皇御系譜(不合(あえず)朝七十二代) ・神倭(かむやまと)朝(神武天皇~現在の総称) が書かれています。
その中で、・神皇御系譜(皇統二十五代)には、 4 代天之御中主神身光天皇、22代天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇 (アマテラス) が記されています。
すなわち記紀には記されていない、神代・上代・不合朝の数十代(数百年)の時代があり、だから記紀の記述より数十代(数百年)前に、天照大神はいたといいます。この方が、伊勢に奉られている天照大神で、はじめの天照大神様です。
では、二人目の天照大神とは誰なのだろうか?
「ホツマツタヱ」にはアマテル(天照神)と言う男神がいます。
日の神、大御神、アメノミヲヤ、イセの神 (妹背の神) ともいい、幼名をウヒルギ (大日霊貴)、斎名をワカヒトといいました。
アマテルに大日霊貴(おおひるめむち)の字を宛てたために女神とされ、だから天照大神男神説はここからでています。
先の 皇統 22代の 天照大神は偉大な女神であり、その記憶は永く語り継がれ、やはり偉人であった後の 大日霊貴(おおひるめむち)と同一視されたのです。
七世紀に起きた『壬申の乱』は、天皇の座を巡り 雌雄を決する戦いでした。 勝者の天武天皇は、天照大神ー神武天皇の後継者として、その正統性を記すために記紀を作成し、伊勢の神宮を重用しました。
その時、二人の天照大神は、一人とされ、それが、七世紀における覇権の正統性を編集するのには都合が良かったのでした。
なぜなら、不合朝の七十二代を認めれば、壬申の乱で天武が仕上げをし、持統が藤原氏と簒奪した神倭朝(大和朝)に、新たな火種を残すことになるからです。
すなわち、天照大神ー神武天皇の後継者として名乗り出る者は、いくらでも居たであろうし、そうすれば、戦いはいつまでも絶えなかったにちがいない。
古史古伝や古代文字の焚書は そのための政策であったのでしょう。
記紀の紀年を調べると、大きな矛盾が生まれてくるのも、覇権の正統性を巡る政策の 結果でした。
(なお、執筆者の関裕二氏は、ホツマツタヱや竹内文献の知識は、当然お有りだと拝察します。
でも、奇書・偽書と云われる古史古伝を取り上げることは未だ難しいのではないかと推定しますが、これらの古史古伝でなければ説明できない事案は、無数にあります。
皇国史観などを偽説とし排除する風潮を、一刻も早くぬぐい去り、真摯に取り上げて頂きたいものだと思っている一人です。史郎)
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この渡河のとき、大海人皇子に随行していたウノノサララヒメミコ(のちの持統)も、同様に太陽神(男性神としての)を遥拝したはずですが、なんと、その太陽神を18年後には自身の即位に合わせて「女神」に摺り替えてしまったのですね。