やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲 (1)

旨いプレゼント

執筆者:阿川佐和子 2017年11月26日
タグ: アメリカ 日本
エリア: アジア
「寿司は好きだったが寿司屋のカウンターは怖かった」

 

 二年前に他界した父の生前の口癖は、「死ぬまであと何回飯が食えるかと思うと、一回たりともまずいものは食いたくない」であった。たまたま自分の気に入らない食事に出くわした日には、 「一回、損した。どうしてくれる!」と本気で憤怒したものだ。
 そんな父を見るたびに、私は心の中で反論した。毎食、おいしくなくてもいいじゃない。ときどき不味(まず)いものを口にするからこそ、その次、おいしいものにありつけたときの喜びがひとしおってものなんじゃないの? そういう感謝と謙虚の気持をたまには持ってみたらいかがでしょう。
 父が機嫌のいい日を見計らい、おそらく一度だけ、遠慮がちに進言したことがある。すると父は間髪入れず、
 「そういう気には、なれん!」
 きっぱり言い切った。
 なぜ父がそれほどまでに食べることに執着したか。父の母親は生粋(きっすい)の大阪人で、ことのほか食べることが好きだったようだ。病気の見舞いに花が届くと、「こんなもんよりお菓子のほうがどれだけありがたいか」と文句を言っていたという。だからその母親の遺伝かと長らく思っていたのだが、どうやら父の父親、私の祖父も「旨い物好き」であったらしいことをあとになって知った。父の著書によれば、戦前、祖父が仕事の都合で満州に滞在していた頃、身の回りの面倒を見てくれることになった知人の奥さんに向かってこう言ったそうである。
 「あのな、おますさん。わしは着る物はどんなに粗末でも構はん。その代り、食ふもんだけ、毎日旨アいもんを食はせてくれ」(阿川弘之『亡き母や』より)
 私には父方の祖父母の記憶がまったくない。祖父は私が生まれるよりだいぶ前に中風で亡くなっていたし、祖母も私が二歳になる少し前に他界した。ぐずつく私を抱いて父の故郷の広島まで列車で長旅をしたときは、それはそれは大変だったとその後母に何度も聞かされて、葬儀に参列したらしいことは認識しているが、自らの記憶に生きた祖父母の思い出は一切ない。まして祖父母がどれほど食べることに関心が高かったかとか、何が好物であったかとか、どんな料理が食卓に並んだかなど、もはや知るよしもない。
 ただ、そういう両親のもとに、歳上のきょうだいからはるか離れて生まれた恥かきっ子の父が、戦争前後の貧しい時代を挟んだにしても、どれほど「旨い物」を与えられて育ったかは想像するに難くない。
 ときどき父のことを、他人様は「グルメでいらしたんでしょう」とおっしゃってくださるが、そのたびに私は、
 「いえ、決してグルメではありません。単に食い意地が張っていただけです」
 謙遜しているわけではない。実際、そうだった。もちろん、東においしい肉があると聞けば即刻求めに行き、西においしい魚があると知ればいそいそと食しに出かける傾向は多々あった。食べものに対して腰が軽いことは間違いなく、また「おいしいもの」のためには比較的財布の紐が緩かったことも事実である。ただ、材料を極めるとか味を分析するとか料理人について研究するなどといった嗜好はさほどなかったと思われる。そういうややこしいことを考えるより前に、とにかく毎食、「旨い!」と思いたいのである。加えて「旨い!」と声を発するとき、できれば自分が極めて我が儘(わがまま)の言える、誰に気兼ねする必要もない食卓で食べられることが父にとっては望ましかった。
 だから、家族を連れて外食をすることを父はさして厭(いと)わなかった。むしろ気の張る食事会やパーティに出席して帰宅してきたときなどは文句たらたら。「気が張って、ろくに食ってない」と母に言いつけ、茶漬けを作らせたり晩ご飯の残り物を温めさせたりすることもしばしばであった。
 小学校の低学年の頃に私は「エンゲル係数」という言葉を知り、「ウチはエンゲル係数が高い家庭なのだ」と理解していたし、昭和の半ばの時代に我が家ほど家族で外食をする家庭はさほど多くなかったと思われる。それは楽しみなことではあったけれど、同時に、ともだちに話したら、「お宅ってそんな贅沢をしているの?」と非難されそうで、軽々に語れない我が家の特殊事情であると認識していた。
 「子供が寿司屋のカウンターに座るなんて、どういう親の教育をしているの? 私は二十歳を過ぎるまで寿司屋のカウンターなんて座ったことがありません!」
 悪友ダンフミはそう言って、私を非難する。たしかに私とて、幼い子供が生意気に寿司屋のカウンターに座り、「次はウニ」などと注文している姿を見つけたら、「親の顔が見てみたい」と顔をしかめるかもしれない。しかしそれが決して褒められた行為ではないと子供が知る暇もないうちに、父は家族全員を連れて頻繁に料理店へ出向いたのである。
 小さな言い訳をさせていただけるならば、私は、寿司は好きだったが寿司屋のカウンターは怖かった。カウンターには今と違って煙をもうもうと上げながら煙草を吸っている人や、杯を上げて大声で騒ぐおじさんがたくさんいた。そんな乱暴そうな大人たちの居並ぶ中、隣に兄や母がいるとはいえ、お寿司を楽しむ気分にはなれない。ましてガラスケースの向こう側にいる職人さんに「次は何にする?」と問いかけられてもハキハキと答えることはできなかった。よく父に、「そんな小さい声じゃ聞こえない。もっと大きな声で言いなさい!」と叱られて、泣きそうになりながら、「イクラをお願いします」などと注文した恐怖の思い出がある。
 もちろんその店は、父が懇意にしていた寿司屋だったので、子供連れを承知で受け入れてくれた。ただ、ひととおり食べ終わったらさっさとカウンターから離れる約束になっていた。私たちきょうだいは客のいない店の二階席の片隅で、「うるさくしてはいけない」という父の厳命を守り、父母の食事が終わるまで、本を読んだり絵を描いたりして待ったものである。
 父はおいしいものを食べることが何よりの幸せだと信じていたので、家族ももれなく同じ思いであろうと信じていた節がある。
 私が小学一年生か二年生の頃、誕生日を迎え、すると父が珍しく穏やかな声で話しかけてきた。
 「そうか、今日は佐和子の誕生日か。なにか欲しいものはあるか?」
 そんな優しい問いかけをされることはめったにない。私は心浮き立った。はて何を買ってもらおう。洋服にしようか。人形にしようか。あまり高価なものを望んだら怒られるかもしれない。あ あ、迷う、どうしよう。こうして娘が熟慮しているのを、せっかちな父は待ちきれない。そしてとうとう、
 「よし、誕生日の祝いにみんなで旨いもんを食いに行こう!」
 父は嬉々として店の予約をし、支度を整え、家族揃って出かけることになる。が、私は内心、少し悲しい。食事で私のプレゼントはおしまいかと思うと、かなり悲しい。
 でもそんな不満を言える立場にはなかった。諦めて食事を楽しむことにする。その晩は中華料理店へ赴いた。比較的和やかに食事を終え、母が会計を済ませ、さて帰ろうと店を出た途端、私にとって忘れることのできない悲劇が勃発したのである。その顛末はすでにあちこちに書いたので割愛させていただくが、簡単に言えば、せっかく娘のために大枚叩いてごちそうしてやったのに、 娘は「お父さん、ごちそうさまでした」と言うべきところ、北風に吹かれてつい「寒い!」と言った、その一言に激怒して、そのあげく、母もそのとばっちりを受けて帰り道の途中で捨て置かれ、すわ一家離散かという、今、書いているだけでぞっとするほど恐怖に満ちた私の誕生日の思い出である。
 父は子供の誕生日にかぎらず、おりおりに「旨いもんを食いにいこう」という提案をする癖があった。伴侶を失って気落ちしている母方の伯父をなんとか慰めようと思うあまり、「どうですか。旨いもんでも食いに行きましょう」と誘ったところ、伯父は答えた。
 「お気持はありがたいけど、とてもおいしいものなんて食べる気になれないんです。妻は闘病中、ずっとおいしいものなんて食べられなかったからねえ」
 電話を切った父は小声で言っていた。
 「そうかねえ。旨いもんを食えば元気になれると思ったんだがねえ」
 家族に癇癪(かんしゃく)を起こしたあと、
 「わかったのか!」
 「わかりました。私が悪かったです」
 殊勝に謝る妻や娘の顔を見ると、かすかに憐憫の情が湧くのだろう。必ずと言っていいほど、この台詞を吐いた。
 「わかったならよろしい。じゃ、機嫌を直して、旨いもんでも食いにいくか」
 父に同行して初めてハワイへ行ったときもそうである。いつものように、私のちょっとした口答えに対し、父は激しく怒り狂い、私は父の前でおいおい泣き、そしてしばらくのち、
 「わかったならもういい。旨いもんでも食いにいこう」
 連れて行かれたのが、「タイ料理」レストランだった。少し優しくなったとはいえ、つい先刻まで私を睨みつけ、怒鳴りつけていた父の前である。そう簡単に天真爛漫な気持にはなれない。しかもタイ料理は初めてで、どんな料理が出てくるのかわからなかった。最初に供された、たしか青パパイヤのサラダが、コリコリしていておいしいのだけれど、なんといっても辛い。舌がしびれ、口から火を吹きそうなほどである。
 「カラッ」
 驚いて水を飲むがいっこうに口の中の爆発は収まらない。そこへスープの入った壺が運ばれた。このスープを飲んで口を和ませよう。そう思い、スプーンで一口すするや、
 「ひえええええ」
 サラダ以上に辛いではないか。
 「からーーーーーーい!」
 驚いて跳び上がったら、父が笑い出し、さらに隣のテーブルに一人で座っていたアメリカ人紳士がこちらに向かって日本語で、
 「カラーイケド、オイシイネエ」
 声をかけてきた。その一言に父は喜んで、この一件を随筆にした。かつて本誌に父が連載していた『食味風々録』の「ハワイの美味」にその光景が描かれている。が、その場面を迎える前、自分が娘をバスタオルで引っぱたき、「からーーーーーーい!」と悲鳴を上げた娘の顔にまだ涙のあとが残っていたことは、父の文章にはいっさい触れられていない。

カテゴリ: 社会 カルチャー
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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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