やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲 (4)

かつぶしご飯

執筆者:阿川佐和子 2018年2月4日
エリア: 日本
「他にはなにもいらんから、かつお節弁当だけ作って持って来てくれ」

 

 前回、おにぎりについて書いたけれど、今回も引き続きご飯ものの話にてご容赦。幼馴染みの内藤啓子(けいこ)さんが父上、阪田寛夫氏の思い出を1冊にまとめ、先日、上梓された。『枕詞はサッちゃん』(新潮社刊)というタイトルのその著書を読み、思い出したことがある。
 まずは阪田寛夫一家と我が家の関係について少し触れておかなければなるまい。
 昭和30年代の初め、阪田家と我が家は中野区鷺宮にある公団住宅の同じ敷地内に住んでいた。阪田家には娘が2人、私の1つ歳上である啓ちゃん(内藤啓子さん)と、私より3つ歳下の次女、なつめちゃん(宝塚のトップスターになった大浦みずきさん)がいた。団地の子供たちはみな仲が良く、毎日のように集まっては日が暮れるまで団地の敷地内で缶蹴りやゴム段などをして遊び呆けていたけれど、ことに私は阪田家の姉妹と仲良しで、始終、阪田家へ入り浸った。私に女きょうだいがいなかったせいもある。加えて阪田おじちゃん(阪田寛夫氏)が極めて穏やかな性格で、どうやら我が父同様、原稿用紙に向かって仕事をする商売とお見受けするのだが、父のように子供たちを「うるさい!」と怒鳴り散らすことのないお父さんだった。阪田家では安心して遊べる。びくびくする必要がない。阪田おばちゃんは子供たちのためにケーキを焼いてくれたり遊び相手になってくれたりするし、一方の阪田おじちゃんは、ずっと2階の書斎にこもったきり、めったなことでは現れない。こんな居心地のいいところがあるだろうか。
 1つだけ難を言えば、妹のなっちゅんが泣き虫だったことである。子供にとって3、4つの年齢差は大きい。私と啓ちゃんが遊んでいると、すぐになっちゅんが仲間に入ってくるのだが、私たちと同じように遊ぶ力はなく、どうしてもおミソになる。そのうち何かの拍子に……たとえばゲームに負けたり、遊び方を間違えて注意されたりすると、「ギャー!」と泣いて暴れ出す。たちまち啓ちゃんが妹を叱りつける。なっちゅんがもっと泣く。その激しいやりとりを見守るうち、なんともいえず悲しい気持になり、今度は私が泣き出す。すると必ず阪田おばちゃんが現れて、
 「2人ともケンカやめなさい! ほら、またサワコちゃん、泣かしてしもうたやないか!」
 そうそう、阪田家の魅力にはもう1つ、関西弁があった。当時としては珍しい生クリームのいちごショートケーキやアイスクリーム製造器、阪田おばちゃんが着ている白いブラウスやサーキュラースカート。クリスチャンだった阪田家には、まるでアメリカのホームドラマに出てくるようなアメリカ文化が溢れていたが、家族が交わす言葉は、面白みの漂うおっとりとした関西弁だった。この関西弁とアメリカンムードの入り交じった不思議な文化空間に私は憧れた。
 そんな阪田家の食卓で、お菓子をいただいていたときだったろうか。大柄で髪の毛がふさふさとした阪田おじちゃんが2階からふいに降りてきて、「サワコちゃんねえ」とおっとり声をかけていらした。
 「お宅のお母さんがよく作る『かつお節弁当』の作り方、サワコちゃん、わかる?」
 「うん、わかるよ」
 返答すると、
 「教えてくれない?」
 当時、阪田おじちゃんは、我々団地の子供たちにとってNHKの「みんなのうた」の作詞家として尊敬されていた。「おとなマーチ」や「おなかのへるうた」でヒットを飛ばしている。もしかして今度は、ウチの「かつお節弁当」の詩を作るつもりだな。私はピンときた。そして得意になって語り出した。
 「まずお弁当箱にご飯を薄く敷いてね。その上に、削ったかつお節をお醤油で和(あ)えたのを薄く広げるの。その上に海苔をかぶせて、その上にまたご飯を薄く敷いて、その上にかつお節を薄く広げて、また海苔をかぶせて。2段でもいいし、3段にすることもある」
 阪田おじちゃんは私の拙い説明をちゃちゃっとノートに書き留めて、「ありがとう」と言うと、また2階へ姿を消した。
 私は期待した。いつか「かつお節弁当」の歌が「みんなのうた」に登場し、有名になった暁は、「この歌は阿川佐和子さんの話をもとに作られました」って紹介されるのだろうか。しばらく妄想してニンマリしていたが、結局、そういうことにはならなかった。かわりに、合唱組曲『遠足』の中の「おべんとう」という歌(作曲は山本直純)として、全国の小学校で歌われることとなった。ヒットはしなかったが日の目は見た。
 我が家のかつお節弁当のことをなぜ阪田おじちゃんがご存じだったのか。わからないが、母の作るかつお節弁当を父がことのほか好物としていたのは事実である。朝、私たちきょうだいが学校へ出かけようとアタフタしている時間に、父が書斎から姿を現す。たいがい父は夜中から明け方にかけて起きていて、原稿を書いているのか思案しているのかサボっているのか知らないが、とにかくずっと起きていたのだからお腹が空くのだろう。台所を覗き、母が子供のためにお弁当を作っているのを見つけるや、
 「ああ、俺も生涯に1度、うまい弁当が食いたいものだ。俺にも作ってもらえないものかねえ」
 と母に嫌味を言う。
 「わかりましたけど、子供たちが出かけたあとに作りますから、少し待ってください」
 そう答える母に背を向けて、
 「俺はかつお節弁当がいい。俺が削るから、かつお節を出してくれ。おい、削り器はどこにしまった?」
 「今、出しますから」
 そんな両親の会話を聞きながら子供たちは玄関を出てしまうので、その後、どういう展開になったのかはわからないが、父が「生涯に1度、俺も弁当というものを食ってみたい」と言うのを何度耳にしたか知れない。
 父は外国旅行に出かけるときも、母に「かつお節弁当」を所望した。
 「飛行機で機内食が出るでしょうに」
 母が言うと決まって父は、
 「機内食なんか食いたくない。俺がかつお節弁当を食っていると、スチュワーデスがみんな羨ましそうな目で通り過ぎるぞ。『おいしそうですねえ』って。飛行機の中で食うかつお節弁当は、また格別に旨いんだ」
 こうして母は、父の荷造りだけでも大変なのにいつも機内食代わりのかつお節弁当を作らされるはめになる。
 子供用とは違い、父のかつお節弁当には必ずわさびが入っていた。炊きたてのご飯を薄く敷き、その上に擦った生わさびを散らす。それから醤油とからめた削り立てのかつお節を広げ、上から海苔で蓋をする。たいがいは2段重ねだが、時間がないときは1段で済ませるときもあった。
 おかずもたいがい決まっていた。牛肉の佃煮とピーマンの油炒めと玉子焼き。玉子焼きは必ずしもだし巻きである必要はないが、ほどほどに甘い味に仕上げる。牛肉の佃煮は、切り落としのような安価な牛肉の薄切りを、最初に酒と砂糖と一緒に鍋の中で火を通し、しばしのち、千切りにした生姜と醤油をたっぷり入れてしばらく煮込む。といっても肉が真っ黒になるほど煮込みすぎない程度の佃煮が、父の好みだったと記憶する。
 そしてピーマンの油炒めは、ピーマンを1センチ弱ほどの幅に切り、油でよく炒めたあと、醤油と七味唐辛子で味付けする。ピーマンには砂糖を入れないかわりに七味唐辛子のピリッとした味が利いている。
 いつから母の弁当の定めのおかずとなったのか知らないが、母の作る弁当のおかずといえば、私が幼い頃からこの3点だった。
 父が90歳を過ぎ、老人病院に入院して以降、かつお節弁当を作るのは、もっぱら私の仕事になった。父が入院していた病院では料理の持ち込みが可能であった。昔ほど量を食べられなくなっても父の食べものに対する執着は衰えず、
 「他にはなにもいらんから、かつお節弁当だけ作って持って来てくれ」
 入院当初、いつも父に求められ、週に1度ぐらいのペースとはいえ、何度も作って持っていったものだ。ただ、忙しかったりすると、さほど丁寧に作る時間がない。かつお節はパックを、わさびは市販のチューブ式のものを使ってごまかした。できあがったかつお節弁当を父の元に届け、差し出すと、驚いたことに父は敏感に察知するのである。
 「おい、このかつお節はなにを使った?」
 「えーと、パックのものですけどね」
 「どうりで不味いと思った。上等のかつお節を使ってもらいたいものだねえ」
 苦笑いを浮かべ、いかにも不満そうである。しかたなく私は日本橋のにんべんに足を運び、いちばん高価なかつお節を買った。家に持ち帰り、削り器で丁寧に、まるで熟練した大工さんがカンナ掛けをするがごとくに見事な削り節を拵えて、「どうじゃ、これで文句はないだろう!」とばかりに醤油と和える。次の週、父の前に自慢の作を差し出すと、今度は、
 「やっぱりいいかつお節だと味が違うな。しかし、このわさびはなんだ? 香りもなにもない」
 チューブわさびに気づかれた。
 「よーし!」と次は1本1000円以上するわさびを購入し、たっぷりご飯にまぶし、またもや「どうじゃ!」と心で唱えて父に食べさせてみると、
 「辛(から)い……」
 かつお節弁当さえあれば他にはなにもいらないと言っていた父は、その後の入院生活が長くなるにつれ、少しずつ食への要求が膨らんでいった。そのあげく、父の病室にて「すき焼き」を作って食べさせるまでに至ったこと、その作り方にも父は毎回、文句をつけていたことなどは、他のところで書いたので詳細は割愛する。そして、これについても書いたけれど、私が最後に父の口へ運んだものは、かつお節弁当ではなかった。
 食べる力がほとんどなくなってなお、父の頭には「食べたいもの」が渦巻いていたようだ。「新鮮な鯛の刺身」「トロもいいな」「ステーキが食いたい」とは亡くなる2日前の呟きである。そしてその日私は父の望みに反して、とうもろこしの天ぷらを持参した。父が「とうもろこしの天ぷら」を好んでいたからである。天ぷらを作るのが得意ではなかったが、粉と卵につけて油で揚げればいいのだろうと適当に作ってみた。少し冷めたとうもろこしのかたまりを父の顔の前に差し出して、
 「食べてみますか?」
 訊ねると、うんうんと頷いたので、私はゆっくり父の口に差し込んだ。父はしばらくもぐもぐと、とうもろこしを食んでのち、まもなく口から吐き出した。そして一言、
 「まずい」
 私にかけられた父の最期の言葉であった。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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