やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲(14)

箸箸のすむ処

執筆者:阿川佐和子 2018年12月1日
エリア: 日本
「箸はラップ以上の耐久力を持っている」
 

 前回、ラップ2度使いの話を書いたら、「ならばアガワさん、割り箸はどうしているのですか?」と知人に問われた。ラップを2度も使う人間ならば、当然、割り箸も1回使った程度で捨てないだろうと思われたらしい。
 まことにもってご推察の通り。このケチな私が捨てるものですか。とはいえ、使った割り箸をすべて取っておくわけではない。外で、たとえばテレビ局の楽屋でいただく仕出し屋さんのお弁当の割り箸までいちいち持って帰ることはない。お弁当の割り箸は、お弁当とともに天寿を全うしていただくのがよかろう。ただ、捨てようとするとき、ふと気づく。割り箸袋の中に、爪楊枝が1本、添えられている。この爪楊枝は新品だ。まだ任務を果たしていない。さりとてここで爪楊枝を使う必要が、私には生じない。よほど奥歯に菜っ葉が詰まって取れないとか、前歯におかずのカスが挟まっているとか、そういう切迫したとき以外、あまり使う習慣がないのである。いえ、菜っ葉が歯に詰まらないタチだと申し上げているのではない。むしろ大いに詰まるタチである。寄る年波に、詰まる確率が高まってきた。あれはなぜでしょう。おそらく歯と歯の間の隙間が少しずつ開き始めているせいだろう。台本や資料を読みながらも、あるいはスタッフと打ち合わせをしながらも、気になるので、舌をぐるんぐるん駆使してなんとか奥歯から菜っ葉(たいてい三つ葉とかニラとかほうれん草とか、緑黄野菜の場合が多い)を引き剥がそうと努力する。が、これがなかなか手強い。食後に歯を磨いたにもかかわらず、口をクチュクチュ水ですすいでなお、残っている感触がある。悔しくなり、とうとう人目を盗んで素早く親指と人差し指を口に突っ込み、目を見開き、鬼の形相で挟まっている菜っ葉をつまみ出そうとするのだが、そういうときに限って他人様の視線がこちらに向けられている。
 「詰まりましたか。あれって気になりますよねえ」
 目撃した輩は苦笑いしながら私を慰めてくれる。私は苦笑いしながら応える。
 「そうなのよ。なかなか取れなくて。ちょっとごめんなさい」
 その段階にて私はようやく爪楊枝に手を伸ばし、本腰を入れて菜っ葉一掃に乗り出す。
 「ああ、やっと取れた!」
 捕獲した菜っ葉をティッシュに包み、ついでに活躍してくれた爪楊枝もくるんで、さりげなく指についた唾液を拭き取りつつ、ゴミ箱にポイ。だから最初から爪楊枝を使えばいいのにと言われるが、それにはどうも抵抗がある。
 誰が開発したのか知らないが、爪楊枝とはたいそう便利なものである。が、その便利な爪楊枝には一定のイメージが伴う。すなわち、口の端にくわえたまま、シーハーシーハーするオジサン。あるいは、お化粧はぬかりなく、お召し物も一流とお見受けするご婦人が、突然唇を裏返し、顔をゆがめて長時間にわたり格闘する姿。あのがっかり感を他人様に向けてはならないという意識が働く。
 なーに言ってんの、指を口に突っ込むほうがみっともないですよと、反論されるのは承知の上だ。だが、私の美意識の中では、一瞬の指のほうが「マシ!」である。
 それほどに使う頻度の低い爪楊枝であっても、使わないまま捨てるには忍びない。爪楊枝は泣くであろう。僕、まだ何のお役にも立っていないのに。どうしてゴミ箱行きなんですか。そんな声が爪楊枝から聞こえてくる気がして、つい、バッグに放り込む。きっといつか何かの役に立つだろう。たとえば出先にてお酒のおつまみにオリーブとかチーズとかを差し出され、「ごめんなさい。フォークが今、なくて」なんて言われたら、私は爽やかに応えて差し上げる。
 「大丈夫です。私、爪楊枝、持ってますから」
 たとえば時計とかパソコンとかの極小リセットボタンを長い爪で、押しても押してもうまくいかない若者を見つけたとき、
 「これ、使ってみたら?」
 爪楊枝を差し出して人助けもできる。
 あるいは、タイルの目地掃除、ゴルフクラブのフェイスに詰まったゴミ取り、パソコンのキーボードの間の埃取りなど、爪楊枝は口に突っ込まなくてもたくさん仕事がある。だからバッグに入れておけば、いつか必ず世のため人のためになる日が訪れるはずだ。そう思っているから、私のバッグの中には埃まみれになった新品爪楊枝が常時2、3本入っているはめとなる。
 何の話をしていたんだっけ。そう、割り箸だった。長らくお待たせいたしました。
 外で食べたお弁当の割り箸は捨てるが、考えてみると、かつて料理屋さんの使用済み割り箸を持ち帰ったことがあるのを思い出した。店によって驚くほど上質な割り箸を供されることがある。特に私は、先の細く尖った箸が好みである。たいていの割り箸は、形状が丸いか四角いかはさておいて、箸の先は直径にして5ミリぐらいあるのが普通である。それがほんの1、2ミリ程度だったとしてごらんなさい。まず美しい。そして使いやすい。その箸を作った職人の意気込みが伝わってくる。たとえ機械で削ったものであったとしてもである。そういう箸に出くわすと、食事が終わったのちもその箸に気を取られ、にわかに席を去りがたくなる。どうせ店側も、どこの誰が使ったかわからぬ簡易な箸は処分するにちがいない。もう一度洗って使うことはあるまい。そこで意を決して申し出る。
 「この割り箸、ステキですねえ。持って帰っていいですか」
 「どうぞどうぞ」という返事を期待して申し出る。案の定、どうぞどうぞと言われて持ち帰る。そういう日は、たいそう得した気持になる。
 でも、家に帰って気づく。割り箸はもはやじゅうぶんにあることを。今、数えてみたのですが、普段、菜箸使いにしている割り箸が、ガス台の横の筒状容器に23膳差してあった。その他、戸棚には未使用の割り箸……寿司屋、トンカツ屋、和食屋などの名前の入ったものと、客人用に買い置いた40膳セットが2袋、さらに正月用の豪華割り箸などを合計すると、ゆうに100を超える数となる。そんなにあったか……。さらにさらに冷凍庫の中には、さる大分の旅館から贈られた竹の箸(これぞ私好みの先細箸)が布にくるまれて何年も大事に保存されている。竹箸はカビがつきやすいので、長く保存する際は冷凍庫に入れておくといいと言われて幾星霜。もったいないからなかなか使えない。凍ったままデビューする日を待ち続けている。
 そんなにたくさんあるのだから、どんどん消費すればいい。これ以上持ち帰ってくるな。家族にも我が家を訪れた友人にも知人にもよく叱られるのだけれど、なかなか難しい。箸はラップ以上の耐久力を持っている。2度、3度ではへこたれない。洗えばまたきれいに再生する。もうじゅうぶんに使ったぞ、今度こそ捨てよう! そう思ってとりあえず洗って干しておくと、またきれいな姿で私の前に現れる。困ったヤツだなあ。
 家で料理を作るときは当然のことながら割り箸が大活躍をする。炒め物をする際も、皿に料理を盛るときも、ドレッシングをかき混ぜるにも、ちょっと味見をする場合にも、割り箸は私とともに休むことなく立ち働く。いわば戦友だ。私が割り箸を手に握っている時間を計ったら、けっこう長いのではないか。私は料理の準備をほどほどに終え、調理に使った割り箸を握ったまま食卓へ移動する。そして、その割り箸を手に、「いただきまーす」と食事を始め、しばらく後、ふと手元を見ると、自らが箸置きにセットした私専用の江戸木箸、縞黒檀の八角箸が微動だにせぬ静けさで待機していることに気づく。
 結婚する前、ウチの亭主殿から贈られた揃いの箸である。私の好きな先細で、つまんだものが滑らず、握ったときの重さも太さもちょうどよく、そして姿が美しい。だからこそ愛用しているのだが、気がつくと、菜箸用の割り箸でおかずを口に運んでしまうのだ。
 この八角箸より以前、娘時代には長らく塗りの箸を使っていた。黒と赤の木目模様の四角箸だが、もはや外側の漆がだいぶ剥げてしまった。誰が買ってくれたのか定かな記憶は遠い。あの頃、父の箸は黒い漆に金粉の混ざったもの、母は赤茶色をした小ぶりの塗り箸を使っていた。家族の箸を食卓に並べるのは娘の仕事だったことを思い出す。今再び食卓に登場することはなさそうだが、私の娘時代の塗り箸は、家族の食卓の、おいしく可笑しく、ときに恐怖に満ちた壮絶な思い出とともに、抽斗の中で眠っている。
 ときどき失敗する。レストランにて、とくに中華料理屋さんでのことが多いのだが、運ばれてきた料理を取ろうとする。大皿の横に取り分け用の割り箸がついている。それを持ち、お喋りをしつつ、自分の小皿に少量、盛る。これくらい取っても怒られないかしら。
 「うん、おいしいね」
 「ホント。おいしいね」
 まわりの同伴者と頷き合い、会話をし、笑ったりナプキンで口元を拭いたりするうち、はたと気づく。
 私が握っている割り箸はなんだ? 誰のだ? なぜそういう疑問を抱いたか。私の皿の上に、割り箸が2膳、並んでいるからだ。なぜ私のところだけ、箸が2膳あるのだろう。いつから2膳になったのか。不審に思い、考えて、そしてようやく理解する。自分が手にしているのが取り分け用の割り箸であることを。だからといって、1度でも口に入れた取り分け用箸を、いまさら大皿に戻すわけにもいくまい。ならば自分用の箸を大皿の横に添えようか。いやいや、そちらもすでに口をつけた覚えがある。うーむ。そして私はまわりを見渡して、誰も気づいていないとわかったら、さりげなく取り分け用箸の先をナプキンで軽く拭き、何ごともなかったかの素振りで大皿に戻す。そんなの、新しい割り箸を注文すれば済むことじゃないか。そうおっしゃる向きもあるだろうけれど、それではせっかく食卓に登場した割り箸の一膳が無駄になってしまう。可哀想ではないか。ですから今後、私と中華料理を食べることがあったら、どうかお気をつけあそばせ。よくやるんです、この失敗。
 ちなみにお店によって中華料理の取り分け用として、やたらに長い箸が供されるのをご存じであろうか。聞くところによると、あれは席に座ったままでもテーブル中央にある大皿料理に届くよう、長くしてあるのだそうだ。取り分け用箸が、そこまで長かったら、さすがの私も使い間違えることはないのにね。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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