やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲(15)

贅沢アレルギー

執筆者:阿川佐和子 2019年1月6日
エリア: 日本
「これまでどんな贅沢な食事をしたことがあるか」

 

 ラップ2度使いとか爪楊枝の活用法とか、ケチな話ばかり書いていたらつくづく自分はケチな人間だという気がして情けなくなってきた。そんなことはない。私とて使うときは使うのだ。上等なものにはそれなりの投資がつきもの。と、他人様に言われて心から共感することが、ないわけではない。そこで今回は、これまでどんな贅沢な食事をしたことがあるか、記憶を呼び覚ましてみようと思う。
 今まででもっとも高価な食事と言えば、さる金持ちの紳士が主催した中華料理会食であろう。その夜は主催者を含め総計7人が円卓を囲んだ。だいぶ昔の話で献立をすべて覚えているわけではないが、次々に運ばれてくる料理がいずれも豪華の極みだったことはまちがいない。食通である主催者の特別注文だったらしい。子豚の丸焼き。極上干しアワビ2種の煮込み。黄金鰻のスープ。絹糸のごときフカヒレ。ツバメの巣のデザート……。一品供されるたびに食材の出身地や調理法の解説が施され、その都度、歓声と溜め息があがり、そしておもむろに全員の箸が動き出す。
「いやはや、こんな贅沢な中華は初めてです」
 お腹をさすりさすり異口同音に賞賛の声が上がる頃、主催者がさりげなくテーブルの下方から店の人にクレジットカードを手渡した。まもなくお盆に載った黒いカードと明細書が戻ってくる。サインをしている。私は主催者紳士の隣席にいた。無粋とは思ったが、気にはなる。さりげなく視線を明細書へ落とす。瞬時に「3」と「5」という数字が目に入った。あとはゼロが並んでいる。素早く暗算する。おおおお。私はひそかに唸った。そうかそうか。さすが中華の名店だ。1人5万円か。いやはや大変なご負担をさせてしまった。そもそも本会食は、それより少し前、主催者紳士の企画した催し事に皆が協力して働いたので、その「お疲れ会」と称して開かれたものだった。が、だからといってこんなに高価な晩餐をごちそうになってよいものか。
「ごちそうさまでした」
「いやあ、おいしかった!」
 招かれた客たちは店を出たところで主催者を囲み、頭を下げ、三々五々、夜の繁華街へ消えていった。最後に残ったのは私と私の女友達と主催者紳士の3人である。私は改めて主催者氏に向かい、深々と頭を下げた。
「誠にごちそうさまでした。実はチラッと見えちゃいました。まさかこんなお値段になっていたとは!」
「え、そんなに高かったの?」
 女友達が目を丸くした。
「そうなのよ。せめてものお礼に、次は私がおごります! 酔い覚ましにコーヒーでも飲みに行きませんか?」
「じゃ、1杯ごちそうになるかな」
 こうして3人揃って近くのホテルのカフェへ移動した。
「で、いくらくらいだったの?」
 コーヒーをすすりながら、興味津々の目で女友達が私の肘を突く。
「うーんとね。1人、これくらい」
 私は片手を広げて彼女に示す。
「えっ、5万円!?」
「シー、そんな大きな声出さないでよ。合計35万円だから、そういう計算になりますよね?」
 紳士の顔を覗き込み、同意を求めると、彼はふふんと軽く笑みを浮かべ、小声で呟いた。
「桁が違うよ、桁が」
「えええええええ!?」
 女2人の奇声がカフェじゅうに響き渡った。
 これが私の人生で最も高価な食事の記憶である。と言っても、私は支払いをしていない。自らの財布から出したのはコーヒー代だけだ。だから散財の範疇に入らない。文句は言えない。しかしだ。目が飛び出るほど高価な中華フルコースをいただいておいてナンですが、さてその晩餐がおいしかったかと聞かれたら、素直に頷きがたいものがある。なんといっても珍味とゴージャスのオンパレードだった。一品一品は素晴らしいけれど、素晴らしすぎるのだ。たとえて言うなら狭い我が家にミスユニバース級の美女を一気に100人ほど招いたような感じ。シャネルのスーツとエルメスのバッグとプラダのブーツとカルティエの時計を1日にして買ったような気分。豪勢な買い物をして具合が悪くならない人もいるらしいけれど、私は具合が悪くなる。
 とにかくその晩餐は、私の身と胃袋には重すぎた。せめて子豚の丸焼きと干しアワビの煮物の間に、青菜の炒め物とかキュウリの酢の物とか、そういうさっぱりしたものが欲しかった。金糸のように美しいフカヒレの煮込みと一緒に、白いご飯が食べたかった。ご飯の横に漬け物なんぞがあったらなおよろしい。大枚を叩いてくださった紳士には申し訳ないけれど、分に過ぎた。実際、その日の夜中、布団の中で気持が悪くなった。同時に頭の中で数字がちらついた。もったいない。まだ体内から出すわけにはいくまい。私は口を強く閉ざし、なんとか料理が逆流してこないよう、死にものぐるいで我慢した。
 先日、さるパーティにてお会いした紳士から、「今度、お寿司でも食べに行きましょうよ」と誘われた。お寿司か。これがまた要注意である。おいしいお寿司は食べたいが、とんでもなく高価な店だったらどうしよう。自分で払うのも怖いが、ごちそうになるのも困る。そうですねえ、機会があったらねえなどと曖昧な返答をしていると、その紳士、おもむろに、「実は……」と語り出した。
「実は僕、数年前まで寿司が食べられなかったんです」
 とてもそうはお見受けできない。上等そうなスーツに身を包み、ワインに詳しく、体型もお顔立ちも、いかにも食べることがお好きそうである。聞くところによると4代にわたる実業家のお家柄というではないか。そんな裕福そうな殿方が、お寿司を召し上がれないとは珍しい。
「幼い頃に20センチくらいのトロにかぶりついて平らげたあげく、気持が悪くなってもがき苦しんだ。それ以来、生魚が苦手になっちゃったんですよ」
 ところが歳を重ねるうち「寿司はダメです」と言いにくい立場になった。仕事上の交流を広げるにあたり、「酒はダメです」はなんとかしのげても、「寿司はダメです」は通用しないらしい。心配した友人たちが策を練った。
「コイツを寿司の食べられる身体に改造しよう」
 こうして修業が始まった。そもそも「嫌い」と思うものは身体が受けつけない。アレルギー体質でなくとも、身体のどこかに支障が出るという。しかし、「嫌い」なものでも上等であれば、拒否の度合いが軽減されるのだそうだ。そこで友人たちは「ここのコハダは絶品」とか「この店の大トロは上質」とか、自慢の店へこぞって彼を連れて行き、どこのどれなら彼が食べられるかを試すこととなる。
「おかげで今は、バッテラ以外はすべてクリアしました。ただし、上等でなければ身体が受けつけないんです」
 驚いた。そして、思い出した。
 なぜか(なぜでしょう)バーバラと呼ばれる男友達がいた。彼はアルコールに強くない。グラス半分ほどでたちまち気持が悪くなる。仲間と一緒にワインを開けても、「僕は舐める程度で」と、グラスの縁を手で覆って拒絶する。そうか、お酒に弱いのね。長らくそう理解していたが、あるとき奇跡が起こった。
「このワインならいくらでも飲めそう!」
 バーバラの酒量がいつになく伸びた。いくら飲んでも具合が悪くならない。本人も驚いたらしい。なぜ気持が悪くならないのか。まもなく理由が判明した。そのワインは天下一品高級だったのだ。その後も少々値の下がるワインを勧めると、「もうけっこう」と手でグラスに蓋をした。以来、彼には「贅沢バーバラ」の異名がついた。
 そういうことである。そもそもの許容範囲が狭いから、選りすぐったものしか受けつけない。私のように食い意地が張っていると、空腹であればたいていのものはおいしく食べられる。「まずい!」と思うことはあっても、身体が拒否反応を示すことはない。むしろ上等過ぎるものを食べると、あとで気分が悪くなる。なんなんだ、このケチ体質。
 何カ月も先まで入れないという評判の肉料理の店の予約が取れたことがある。2人分。私は友人の誕生日祝いにその僥倖を使うことにした。
「お祝いにおごるから。行かない?」
 カウンターに席を取り、周囲を見渡した。満席である。きっと他のお客さんも、この日を何カ月も前から楽しみにしていたのだろう。同志のような気持になる。いよいよ料理が運ばれて、私たちは笑顔を絶やすことなく口と手を動かした。サラダ、魚貝の前菜、ヒレ肉ステーキ、ガーリックライス。いずれも絶品だった。満喫した。ふと見ると、隣の客がシェフと相談している。シェフは手帖を覗き込んでいる。どうやら次の予約日を決めているらしい。よし。私は奮起した。手帖がしまわれる前に声を発する。「あのー、私もお願いしたいです。いつ頃、枠がありますか?」
「そうですねえ。5カ月先の……」
「ではその日で。2人分」
 誰を連れてくるかはさておいて、とりあえず2人分。こうして次の訪問日も決め、満足感の中、デザートを終え、お手洗いへ行くふりをしてこっそり席を立ち、スタッフに囁く。
「チェック、お願いします」
 請求金額の書かれたメモを静かに差し出される。私はにこやかに視線を落とす。そして仰天した。
「12万!?」
 油断した。そこまで高いとは思っていなかった。ここまで高い誕生日プレゼントを贈るつもりもなかった。しかし、あとには引けない。今さら相方に「割り勘にしようよ」とは言い出せない。引きつる頬をゆっくり緩め、私は財布からクレジットカードを出す。しかたあるまい。おいしかったのだから。たまの投資ではないか。自らをなだめ諭す。これからしばらくは粗食に耐えよう。もやしとソーセージ。白菜の漬け物。豆腐に芋だ。頭の中で安いものを思い浮かべつつ、領収書を受け取る。が、ただ1つ、悔やまれることがあった。会計をする前に、なぜ次の予約をしてしまったか。迂闊であった。
 そして翌日、たまたまながら近くの医院で血液検査をした。検査結果が通知された。
「アガワさん、昨日、なにを食べました? とんでもない危険な数値が出ています」
血中コレステロール値が、標準値を桁違いに上回っているという。通常200ミリグラム台のものが、2000近くに上昇しているというのだ。
 どうやら私の身体は贅沢にアレルギー反応を示すらしい。で、その肉料理店の予約日はどうしたかって? その日が近づいたら運良く身体の具合が悪くなった(嘘ではない、インフルエンザに罹った)ので、金持ちの友達に権利を譲った。危機はまぬがれた。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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