やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲(16)

海山の威厳

執筆者:阿川佐和子 2019年2月2日
エリア: 日本
「あらまあ不思議。手綱こんにゃくの出現である」

 

 この歳になるまで、とうとう「おせち料理」なるものを作らずにきてしまった。
 もう少し嫁入りが早かったら、嫁いだ先のお義母様から教えられる機会もあっただろうし、あるいは若妻の意地で一念発起、意欲を燃やしたかもしれない。が、そういう巡り合わせにならなかったからしかたがない。ならば実家で実の母親に教えられなかったのかといえば、そんな記憶は皆無である。
 そもそも母が重箱に料理を詰めている姿を見た覚えがない。「なにを言っているの、私だってちゃんと作っていたわよ。あんたが覚えていないだけ」と母に反論されそうな気もするが、確かめようにも母自身の記憶がもはや定かでないので、たしかなことはわからない。母のもの忘れが進んで困るのは、昔、頻繁に食卓に並んでいた家庭料理の作り方を聞けなくなったことである。
 「母さん、昔よくドライカレー作ったよね」
 水を向けても、
 「あらそうだった? 忘れた」
 あっさりしたものだ。記憶を呼び戻そうとか、懐かしさが蘇るとか、そういう感傷的な方向に母の脳は動かない。「忘れた」と言ったが勝ちとばかりのにべもなし具合。
 父が晩年、老人病院に入院中、母を連れて見舞いに行くと、開口一番、
 「おい、お前の作るちらし寿司が食いたい」
 懇願するかの表情である。すると、
 「え?」
 母は耳が遠いので聞き返すのは常のことだったから、
 「お前の作る、ちらし寿司が食いたいんだよ」
 同じ言葉を、父は少し大きめの声で繰り返す。しかし、
 「え?」
 母の耳にはまだ届かない。
 「お前のね、ちらし寿司が、食いたいんだ。聞こえないかね。ちらし寿司、ちらし寿司を作ってほしいと言ってるんだよ!」
 もはや隣の病室にも響くほどの大声で父が叫んだ。
 「ああ、ちらし寿司ですか」
 ようやく母は納得した。このまま続くと父が癇癪を起こすのではないかとヒヤヒヤしながら2人のやりとりを見守っていた私は、その一言にホッとした。父も表情を和らげて、
 「そうだ、ちらし寿司だよ」
 母に再度確認するかのごとくに繰り返した。すると母は、まことに当然の思いつきとばかりに清々しい顔で言い放ったのだ。
 「それなら、(近所の)東急に売ってますよ」
 なんたる見事な切り返し。短気な父もさすがに怒る気力をなくしたか、呆気に取られた様子である。私はこっそりニンマリした。長年、父のイライラを収めることに専念させられてきた従順なる母が、初めて見せたレジスタンスだ。父の望みも空しく、結局母はちらし寿司を作って病院へ運ぶことはなかったが、思えば母はあの頃から料理に対する意欲と義務感を失っていったような気がする。
 もっともおせち料理についていえば、父はどうやら正式のお重を母に作れとは命じなかった気がする。老年は別として、若い頃の父には簡素簡潔合理的をよしとする傾向があった。「うちは無宗教だ」と子供たちの前でもよく唱え、古来より伝わる年中行事のたぐいをあえて無視した。家内に仏壇は置かず、お盆の決まり事もいっさいしない。おかげで私は大人になるまでお盆に茄子や胡瓜を飾るとか、北枕はいけないとか、そういうことを知らずにいたし、先祖の墓参りに行った回数も極めて少ない。おかげで今も父の墓参りにほとんど行っていないけれど、お父ちゃんのせいですからね。
 とはいえ、正月は正月だ。食べたいものはあるのだろう。長寿健康、子孫繁栄などの意味のこもった料理は不要としながらも、自分の好物だけは母に作らせた。私の記憶にあるかぎり、大晦日の夜になって母が台所で作り始めるのは、まず数の子。一晩ほど塩抜きをしたのち、適当な大きさにちぎり、醤油と酒に漬け込む。供する直前におかかを混ぜて合わせれば出来上がりだ。
 そしてお煮染めである。なぜお煮染めのことを覚えているかというと、いつの頃からか私はもっぱらこんにゃくを手綱にねじる役を担っていたからだ。あれは一種の快感だった。長方形に切ったこんにゃくの中心に包丁を入れて切れ目をつける。その切れ目にこんにゃくの片方の端をくぐらせると、あらまあ不思議。手綱こんにゃくの出現である。まるで手品のようだった。くるりと裏返ったこんにゃくが、左右にねじりを入れたかたちでしゃきっと落ち着く。まるでそのかたちがこんにゃくにとってこよなく心地よいとばかりの落ち着きようである。もとの長方形に戻ろうという気配はなく、まな板の上で堂々と仰向け(どちらが表かわからないけれど)になっている。その変化の妙が面白く、さらにねじりを入れてみたくなり、中央の切れ目を端っこギリギリまでつけて、2回ひっくり返すと2回ひねりこんにゃく。3回ひねりは無理かなあと恐る恐るねじってみれば、案の定、こんにゃくの端が切れてしまう。
 「なに遊んでるの。いいから早くちょうだい」
 中華鍋片手に母が野菜類を胡麻油で炒める横で、自作のこんにゃくの入ったザルを持ち、1つ1つの出来を確認しながら思ったものだ。何ごとも調子に乗ると失敗するんだなと。こんにゃく以外の材料に、さして凝ったしつらえをすることを母はしなかった。にんじんもレンコンも干し椎茸も里芋も牛蒡も鶏肉も、みな同じほどの大きさに乱切りにした。こんにゃくだけがお洒落だった。
 お煮染め作りが終わると、母ともども、正月用の器を並べる作業に取りかかる。年に1度しか使わない器類は普段の使用頻度の極めて低い戸棚にしまわれていた。
 「飾り餅を載せるお盆、どこにしまったっけ?」
 「そっちの戸棚の右の奥にない?」
 「あったあった。あと、お雑煮用のお椀は?」
 「それはこっちの食器棚の下の段の右側。お父さんのだけ、大きいお椀、出しておいて」
 あの頃、母はコンピューターのように正確にモノのありかを把握していた。1年に1度しか使わないのに、どこにしまってあるかをちゃんと覚えていた。今、正月の支度をしながら母とこういう会話のできなくなったことを、少しばかり寂しく思う。
 正月料理の中で欠かすことのできないものが雑煮である。我が家の元旦は丸餅の入った白味噌雑煮、2日目は澄まし雑煮と決まっていた。父は生まれ育ちが広島ながら、父の母親は生粋の大阪人だった。おそらく丸餅白味噌雑煮は懐かしい母の味なのだろう。さりとて2日続けて白味噌は重い。関東風の澄まし汁の雑煮も食べたい。欲張りなのである。
白味噌雑煮に入れる丸餅は、網で焼かない。雑煮とは別の鍋にて湯がき、トロトロになってから白味噌の鍋に移す。餅以外の具材としては、人参、大根、里芋と、最後に三つ葉と柚子の皮を載せるぐらいだ。これが子供にとってはやや不満であった。白味噌は驚くほど濃くて甘いし、中に入っているのは餅と野菜だけ。肉類が恋しい。その欲求不満が高じ、現在私が作る白味噌雑煮には鶏肉を入れる。母もときどき鶏肉を入れてくれたような気がするのだが、定かな記憶はない。鶏肉は皮付きの細切れを買ってきて、別鍋にて醤油、砂糖、酒を加えて下煮しておく。同じく別鍋で湯がいておいた野菜類とともに、出汁の味の染み込んだ白味噌汁の中へ加えていく。しだいに鶏肉の脂がゆらゆらと表面に浮いてくる。その透き通った脂のゆらゆらを見るたびに、頭の中で父の怒声が響く。
 「鶏肉は入れるなと言っただろう!」
 ついでにつけ加えるにちがいない。
 「味が薄い。もっと濃くしてくれ」
 私の作る白味噌雑煮は父ほど白味噌の量を多く入れないさっぱり系だから、きっと叱られる。
 両親と子供たち(4人全員が揃うことは少なかったと思うが)一緒の頃の元旦は、まず階下から響く父の怒声で始まった。
 「いい加減に起きろ。正月だぞ」
 前夜の夜更かしがたたってまだ眠い。が、起きて、それなりのきちんとした恰好に着替えて食堂へ降りていかないと叱られる。ボーッとした頭のまま居間のドアを開けると、たちまち「高砂や」の音曲が耳に飛び込んでくる。
 「明けましておめでとうございます」
 父はテレビの前に着物姿で籐椅子に座り、能番組に視線を向けたまま、
 「はい、おめでとう。早く母さんの手伝いをしなさい」
 「はーい」
 台所へ移ると、母はいつもより上等の着物の上におろし立ての真っ白い割烹着をつけて、すでに甲斐甲斐しく働いている。それが我が家の元旦の光景であった。
 ある年の正月、母の手伝いをしながら食卓と台所を行き来していると、いつのまにか父がぬうっとそばへ寄ってきた。
 「あとはお前が書きなさい。俺は字が下手で、どうも嫌だ」
 父の手には筆がある。正月の箸の表に家族の名前を記せという。すでに取り箸用の「海山」と自分の名前の「弘之」だけはようよう書き終えたところらしい。
 「えー、私だってお習字、苦手です」
 「俺よりましだろう。書いてくれ」
 こうして私は、母、兄と、自分の名前を箸袋に恐る恐る書いたあたりで、弟が起きてきて、「あ、自分で書きたい」というので、筆を譲る。
 「じゃ、改めて。明けましておめでとうございます」
 食卓に全員が揃い、屠蘇の杯や梅昆布茶の椀をあげ、声を揃える。父以外のそれぞれの手元には、どう見ても頼りない字で表書きされた箸がある。弟のは子供字で、それなりに可愛らしい。ふと見ると、父のゆがんだ「海山」の字が食卓の中央に鎮座ましましている。
 父の海軍時代の友人があるとき私に小声で囁いた。
 「お宅のお父さんさ、文章は上手かもしれないけど、なんであんなに字が汚いの? どうにかならないの?」
 そんなことを娘に訴えられても困ると思ったが、他人にそう言われるほど下手なのかと深く納得したのはその瞬間であった。
 父の「海山」は、たしかに美しいと思えない。しかし、一家の主の威厳はある。少なくとも私の字よりは正月らしいと、父には言えないが、秘かに思ったのを思い出す。正月料理の残骸も姿を消し、日常の箸が並ぶようになるまではずっと、父のゆがんだ「海山」が食卓の上で威張っていた。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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