やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲 (17)

コールタールの春

執筆者:阿川佐和子 2019年3月21日
エリア: 日本
「見た目はコールタールでも、味は絶品と、言わしめてやろうではありませんか」

 

 昔、電車の広告に海苔弁当の写真が貼られていた。ああ、おいしそう。呟いたか、そういう顔をしたか忘れたが、そのとき誰かに言われたのである。
 「あれを見た途端に『おいしそう』と思うのは日本人くらいのもので、外国人は『あんな黒いものを食べるなんて信じられない』って思うんだって。外国人は黒い食べものを不気味だと思ってるからね」
 そう言ったのが誰だったか、定かな記憶はないのだが、今でも海苔に巻かれたおにぎりや、海苔弁当や太巻き1本の姿を見るたびに、「外国人には不気味なのか……」としばし考える。
 もっともそれはまだ私が大人になる前のことで、今や海苔巻きは世界的知名度を得ているし、おにぎりも外国で知られるようになったと聞く。それによくよく考えてみれば外国にも黒い食べものがあるではないか。3大珍味の1つと言われるキャビアはほとんど黒いし、黒オリーブというものもある。イカ墨スパゲティなんぞは、日本人の私のほうが最初は「不気味!」と驚いた。見て不気味。食べた人の口を開けたらもっと不気味。「当店自慢イカ墨」などとメニューに書かれていると、注文してみようかと思うこともあるが、黒々と光る麺が目の前に運ばれてくると、ちょっとビビる。
 そもそも「外国人」とひとくくりにすることが間違いであって、イタリア人とアメリカ人の味覚は違うだろうし、イカ墨スパゲティをおいしいと思う外国人もいれば、不気味と思う外国人もいるだろう。さらに言えばイカ墨スパゲティをおいしいと思う日本人も当然、たくさんいる。だからこそレストランのメニューに載るのだろう。イカ墨考察はこれくらいにするとして、飲み物は黒くても大丈夫なのだろうか。コカコーラやペプシコーラなんて、相当に黒い。コーヒーはどうなんだ? 日本人がコーヒーを最初に見たとき、怯まなかったのだろうか。
 女学校時代の友達が、当時結婚ホヤホヤだった仲間の1人の家に集まったときのこと。
 「何を飲む? コーヒー淹れようか」
 その家の新婚妻が来客たちに問うたところ、1人がこう答えた。
 「私、コーヒーはダメなの」
 「 あ、そうなの?」
 「あんな黒いものがお腹に入ると思ったら、とても怖くて飲めないわ」
 我らが女友達は概して底意地が悪い。そういう初々しい言葉を耳にすると即座にピカリと目が光り、悪さの衝動が煮えたぎる。たちまち残る仲間が反応した。
 「あら、そうなの? 黒いものがお腹に入ると怖いの?」
 「じゃ、チョコレートも食べられないわね」
 「あと、海苔もダメ? 黒豆も無理ね」
 そして家の主がとどめを刺した。
 「せっかくチョコレートと海苔巻きを用意してたんだけど、あなたにだけ出さないでおくわね。残念だわあ」
 そのいじめの現場に私は居合わせなかったのだが、あとでその話を聞いて腹を抱えて笑ったのを覚えている。しかし私はイカ墨スパゲティの皿を前にするたび思い出す。こんな黒いものがお腹に入って大丈夫なのだろうかと。またイカ墨の話に戻ってしまいました。
 今朝、台所のガス台の横を通り過ぎようとした我が家の亭主殿が、ギャッと声を上げてかすかに跳び上がった。
 「どうした?」
 訊ねると、
 「いや、鍋に黒々したものが入ってるから、コールタールでも煮込んでるのかと思って。なにこれ?」
 恐る恐る匂いを嗅いだりしている。
 「別に臭くないでしょ!」
 私は不機嫌に答える。なにもそんなに怖がらなくてもいいものを。「それは、私が作った海苔の佃煮です」
 「あー、そうか」
 かすかに笑みを浮かべて応えたが、食指が動いた気配はない。むしろ怖いものからはさっさと退散するが勝ちとばかり、そのままスルリと鍋の横をすり抜けて、行ってしまった。興味はないのか?
 亭主というものは、妻に何を食わされるのかと、実は日々、戦々恐々としているらしい。口に合えば素直に「おいしいよ」と言えるし箸も進むが、不幸にも口に合わなかった場合、さてなんと言ってその場をしのぐか。妻の私が言うのもナンだが、哀れを誘う。不利な立場にあることを不憫に思う。だって「まずい!」と露骨に言えば、私が不機嫌になるのは火を見るより明らかなのだから。
 その点、私の父は明快だった。明快かつ、料理人への気配りは、少なくとも家族に対してはほぼ皆無であった。以前にも書いたけれど、私が中学時代、父のために精魂込めて煮込んだ東坡肉を一口食べるや、
 「うん、サワコ。明日はなんかうまいもんを食いに行こう」
 純粋だった娘がどれほど傷ついたことか。さりとて父が母の料理に毎回満足していたわけでもない。食卓にいくつも料理が並んでいるにもかかわらず、
 「おい、今夜は結局、何でメシを食えばいいんだ」
 父の本意はすなわち、「うまいものがなにもない」ということなのである。
 いっぽう我が夫は極めて謙虚である。父のように無謀な拒否反応はしない。しかしまったくもって心にもないお世辞を言えるタチでもない。そこで、当人、知恵を使ったらしい。
 「これはもう、生涯分、食べました」
 もう2度と食べたくないというときに、そう発言する。
 「つまり、おいしくないってことね?」
 やや低めの声で問い直すと、
 「違うよ。じゅうぶんに味わったので、もう今後は食べなくても大丈夫かなってね」
 私は溜め息をつきつつも亭主を許す。少なくとも父よりはるかに気配りが感じられるからだ。有り難いと思わなければバチが当たる。でも、これまでに相方が「生涯分食べた」料理はいくつあっただろう。すでにあれとこれと、あれとこれ、と、あれ。こんなにあるのはどういうことだ。どんどん増えていくので、もはや亭主がどの料理に対して「生涯分食べた」と言ったのか、忘れてしまった。だからいちいち悔やまず私は作り続ける。
 さて、鍋に入っていた「海苔の佃煮」についてご説明いたします。コトの発端は、またしても私のケチ根性である。
 到来物の海苔が棚の奥に溜まっている。まだ封を切っていないと思い、蓋に巻かれているセロハンテープを剥がし、期待を込めて缶を開け、袋に入った新鮮な海苔を取り出すと、なんてこった、すでに香りは立たず、触るとヘナリと柔らかい。
 「えー、まだ開けたばかりなのにぃ」
 新品なのに新品にあらず。缶を裏返して確認すると、賞味期限がだいぶ過ぎている。
 そういう海苔を私はヴィンテージ海苔と呼んでいる。このヴィンテージどもを何とか生き返らせる手立てはないものか。長らく思い悩んでいたところ、料理上手の友達Y子が、教えてくれた。
 「私はいつも、海苔の佃煮にするの。簡単よ」
 すると隣にいたY子の友達が、
 「私、瓶に詰めてお裾分けいただいたんだけど、おいしいのよぉ」
 なるほど、そうか。
 さっそくウチに帰って作ってみることにした。もはやパリパリ感をすっかり失って、火であぶってもその鮮度を取り戻せぬ段階のヴィンテージどもを一堂に集め、適当な大きさにちぎって鍋に入れる。そこへ、ヒタヒタになる程度の水を加え、しばしお待ちあれ。しばらくすると、板状だった海苔はさらに色を濃くし、ドロンとしたゾル状態になる。ほほお、海から生まれたばかりの海苔の原型は、こういうものだったのだろうなあ。これをすのこに薄く広げて天日で干したら、また板海苔になる……ってものではないですかね。
 それはさておき、ドロドロ海苔を弱火にかけて、Y子いわくは、かつお節と醤油を加えてことこと煮込めばそれでおしまい。弱火でね、じっくりことこと2時間ぐらい、だそうである。
 が、短気は損気なアガワは、その言いつけを素直に守ろうとしない。パックのかつお節を大量に使うのがもったいないので、「粉末出汁のもと」はどうかしらと、パラパラパラ。使いかけで残っていた「うどんの出汁」というのもパラパラパラ。もちろんパックのかつお節もパラパラパラ。そこへお醤油をタラーリタラタラくらいかな。Y子の佃煮はさっぱり味であったが、少し甘くしてもいいのではないかと思い立ち、砂糖を小さじに2、3杯。お酒も入れてみましょうか。次々に調味料を加えつつ、杓文字でよくよくかき混ぜる。よくよくよくよくかき混ぜる。しつこくかき混ぜる。この作業、何かを思い出す。そうだ、カスタードクリームを作るとき、こんなふうに丁寧にかき混ぜるうち、艶が出てくるのだと習った覚えがある。海苔の佃煮も艶が出てきたんじゃないか? どう? 出てきましたよね?
 でも十分もかき混ぜていたら疲れた。こんなことをガス台の横で2時間も続けられない。さりとて放っておけば焦がすに決まっている。ガス台を離れたら、ガスをつけていたことを忘れる自信だけはある。何ごとにも自信のない私だが、消し忘れの自信と実績だけは積み重ねてきた人生だ。そこであっさり火を止めて、一晩寝かすことにした。その結果が、「なにこれ? コールタールかと思った」発言に繋がるのである。
 見た目はコールタールでも、味は絶品と、言わしめてやろうではありませんか。私はスプーンで味見する。うーん、こんなものか? よくわからない。黒すぎるし。少し砂糖を足す。醤油も足してみよう。タラタラタラ。味が濃くなりすぎたら、また海苔を加えればいい。戸棚でヴィンテージが待っている。
 「どう?」とちょうど出社してきた秘書アヤヤに味見をさせて意見を求めると、恐る恐るの表情ながら一口試食して、
 「ああ、おいしいですよ」
 「甘さは?」
 「これくらいが、私は好きです」
 いい反応だ。よし、これをまた少し煮詰めれば出来上がりとしよう。
 「どう? 味見する?」
 再び通りかかった亭主殿に勧めると、
 「うん、あとでいい」
 ああ、そうですか。でも私はめげない。この大量の海苔の佃煮を、新年のご挨拶がわりにあちこちに配ろう。幸い、この佃煮を詰めるガラス瓶もまた、ヴィンテージ海苔同様、流しの後ろに山ほど待機している。人呼んで、「愚瓶ども」。こんなにたくさん残してどうする、少し捨てたらと家人に言われ続けて幾星霜。ようやく日の目を見るときがきたのだ。海苔にも愚瓶にも、いやはやめでたい春が訪れた。はたして見た目コールタールを「おいしい!」と言ってくれる友がいるかどうか。それはまだ、わからない。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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