やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲(19)

アガワ仕事

執筆者:阿川佐和子 2019年5月12日
エリア: 日本
「今回はカラスミだけでの実験とする」

 

 さる京都料理の老舗で食事をしたら、こよなくおいしいカラスミが供された。ただのカラスミではない。カラスミのまわりにイカが巻かれている。イカとカラスミがねっちりと密着し、なんともいえず味わい深い。感動し、
 「このカラスミはなんですか?」
 料理人の青年に訊ねると、
 「オガワシゴトです」
 オガワシゴト?
 「小川へ散歩に行くぐらいの手軽さでできる料理のことを言いますんです。カラスミのまわりにイカを薄く巻いて、みりん粕に1カ月ほど漬け込んだものです」
 この説明を聞いたかぎりでは、小川へ散歩に行く気楽さで作ることができるとはとうてい思えぬ手の込みようだが、日本料理の中では「簡単」な部類に入るのか。少なくとも手順自体はさほど複雑でなさそうだ。帰宅したのちネットで調べてみたところ、なるほど日本料理の用語に「小川」という言葉が頻繁に使われていることを知った。
 ただ、諸説ある。お店で聞いたとおり、「近くの小川へ散歩に行く程度の時間で仕上がる簡単な仕事」という解説もあったが、料理用語辞典によれば、
 「イカなどのすり身を薄くのして、カラスミ、鮭の燻製などを巻き込んだり重ねたりして、酢で締めるなどしたのち小口切りにする料理を小川と呼ぶ。盛りつけた際に小川のように見えることから、この名がつけられた」
 また他のブログでは、
 「魚貝などの素材をミンチ状にして塩と酢で締める手法を小川〆と呼ぶ」
 はたまた、
 「酢〆の一種だが、さほど酢を強く出さず、小川のように緩く締めるのを小川〆」
 あるいは、
 「刺身の手法の一種。アジ、サヨリなどの刺身の皮目に縦方向の切り込みを入れることを小川造りという。細かい切り目が小川に見えることから」
 ふーむ。よくわからなくなってきたが、私としては当初の「小川へ散歩に行くごとく気楽な気分で作ること」説を採用すると決める。その精神が気に入った。激しく手が込んでいなくとも、プロ級においしく作れる方法があるものだ。それを「小川仕事」と呼ぶのなら、そういう気持を大事にしたい。
 さっそく冷蔵庫を開く。もちろん、カラスミを探すためだ。長年生きていると、いつのまにか到来物や、台湾旅行のお土産や、あるいは自分が台湾へ行った際に購入した1本、さらに貴重な友人手作りものなど、さまざまな出自のカラスミが増えていく。なにせ珍味だ。高級品である。もったいないと思うがあまり、少ーしずついただくうちに残った。加えて味が濃いのでいっぺんにたくさんは食べられない。だから残った。はっけよい、残った残った。とはいえ、軽々には捨てられない。しっかり密封し、密封しすぎて正体知れずとなり、いつしか冷蔵庫の奥底に姿を隠す。
 はてどこにしまったかしら。おお、あったあった。これは、いつ、どこで手に入れたものか。とんと思い出せないが、とりあえずヴィンテージ度合いが高い順に取り出して、中身を繙いてみれば案の定、カッチンカッチン。包丁で切ろうとしても刃が立たぬ。このままでは到底食べられない堅固なるカラスミを、どうすればおいしく食すことができるか……、と心痛めていた矢先、タイミング良く現れた「小川仕事」なる調理法である。
 カチンカチンのカラスミを吟味した結果、【二/ふた】【腹/はら】を選び、保存容器に並べる。上からたっぷりみりんを注ぐ。カラスミの姿が半分隠れるほど注ぐ。本当は「みりん粕」と教えられたが、そういうものが手元にないうえは、みりんで済ませることにしよう。ここで読者は疑問に思うかもしれない。イカはどうした? そうなんです。でも幸か不幸か手元にイカもない。そこで今回はカラスミだけでの実験とする。みりん漬けカラスミの入ったプラスチック容器に蓋をして、調理終了。さてこれをどこに保存しておくか。みりんとの化学変化を目的とするのであれば、冷蔵庫へ入れる必要はないだろう。でも1カ月間、外で放置して大丈夫か。迷った末、決めた。前半15日は調理台の上、後半15日を冷蔵庫というのはいかがでしょう。
 いずれにしても、こんな簡単な料理はない。みりんを注いだだけである。小川へ散歩に行くより簡単だ。フフフンフン。鼻歌も出てきた。でもすぐには食べられない。
 待ち切れない私は2時間ほどして、ちょっと蓋を開けてみる。とろんとしたみりんが固いカラスミの表面で光っている。少しは染み込んだかしら。そっと取り出しまな板に置き、包丁を立てる。表面数ミリに包丁が入る。が、それ以上深くは切れない。冷凍庫に入れて置いたカチンカチンのアイスクリームにスプーンを差し込んだときの衝撃に似ている。まだ無理だな。
 しかし、台所を通り過ぎるたび、カラスミ容器が気にかかる。いっそ他のことをしよう。気分が紛れる。そう思い、冷蔵庫の野菜入れを覗くと、忘れかけていた白菜が、へたへたと横たわっている。買ったのに使いそびれていた。そこでふと思い立つ。この白菜を漬け物にしよう。他のくず野菜や唐辛子とともに塩漬けにすれば、白菜漬けができるだろう。
 くず野菜を探して冷蔵庫を漁っていると、目に留まったのは、冷蔵庫滞在期間長期とおぼしきキムチの器である。おお、キムチか。と、そこでまた思い立つ。この古漬けキムチと白菜を混ぜて漬け込めば、自家製キムチになるのではないか。
 要領は以下の通り。へたへた白菜を1枚ずつに剥がして丁寧に手洗いし、適当な大きさに切って、大きめのボウルの中で塩を揉み込む。そこへ、生姜のカス、ニンニク、リンゴ(本当は梨を入れたいが季節はずれなのでリンゴで代用)のざく切り、人参の尻尾、出汁昆布のカス、カリカリに乾燥したちりめん山椒、そして古漬けキムチをドバッと投入し、手でよくかき混ぜて、木製の落とし蓋をし、その上に……漬け物石に代わるものはなかったか。考えた末、はたと思いついた。
 そうだ、ゴルフボール!
 我が家に使い古しのゴルフボールがたくさんある。それをビニール袋につめ込んで口を閉じ、重石にする。この状態で数日間放置すれば、古いキムチのエキスが塩もみ白菜に移っていき、徐々に発酵が進行し、浅漬けキムチぐらいにはなるだろう。なんと簡単で優れたアイディアではないか。小川へ散歩するぐらいの気楽さでできた。ただこれも、完成までには時間が必要だ。……待つ。
 そして数日後。
 「なんですか、これ?」
 大量のゴルフボールの乗ったボウルを秘書アヤヤに発見される。
 「ああ、これはね……」
 私は得々と小川仕事の説明をし、少し赤くなりかけた新生キムチを披露する。試しに白菜の1枚をつまみ上げ、小さくちぎってアヤヤとともに試食すると、
 「お、なかなかいい味が出てきてるぞ」
 「うん、おいしくなりそう」
 私はさらに気をよくし、
 「実はこっちもね」
 カラスミの容器の蓋を開け、
 「ほら、こちらが最初の小川仕事」
 「すごーい!」
 私はカラスミをつまみ上げ、まな板に乗せて包丁で一切れ切って口に運ぶが、
 「まだ固いわね」
 「うんうん、固いですね」
 芯までみりんが染み込んでいない。が、それでもなかなか美味であるぞよ。
 「小川仕事、楽しそうですね」
 人に褒められるとすぐ図に乗る。まだなにか、できることはないかしら。と、そこで思い出した。冬にいただいたリンゴがだいぶ残っている。これをなんとかしなければ。このところの懸案事項であった。小川仕事が癖になった勢いで、ジャムを作ってみようではないか。さっそく、少し鮮度の落ちたリンゴ8個を調理台に並べ、皮ごと乱切りにして、深鍋に放り込む。上から少し水を差し、火にかける。そこへ砂糖を加える。リンゴ本来の甘さを大事にしたいので、控えめに大匙3杯ぐらいかな。クツクツと音を立て始めたあたりで飲み残しのウイスキーをタポタポタポ。干しぶどうも入れちゃえ。だいぶ煮詰まってきた頃、シナモンシュガーとバターをひとかたまり。ああ、いい香りがしてきたぞ。これでもう少し煮詰めれば、リンゴバタージャムの出来上がりだ。ジャムとしてだけでなく、肉料理に添えても使えそうだ。いやいや、冷凍庫の奥底にパイ生地が残っていたはずだ。それを使ってアップルパイを作ることもできる。小川仕事は妄想とともにどんどん膨らんでいく。
 「今度はなにを作ってるんだ?」
 甘い香りにつられたか、オットーが台所に顔を覗かせた。
 「小川仕事の第4弾。煮リンゴです」
 そう、リンゴを煮ている合間に実はもう1つ、仕事をこなした私である。
 少し前に、辰巳芳子さんの本で覚えた「しいたけスープ」を作った際、エキスをすべて吸い取られたあとの干し椎茸と、同じくふやけ切った出汁昆布と、姿も味ももはや定かでない梅干しの実の部分を、捨てるに忍びないと思い、フードプロセッサーで粉砕した。細かくしてプラスチック容器に入れて保存しておけば、たとえばオムレツに入れるとか、炒め物に加えるとか、炒飯に混ぜるとか、いろいろ使い道があるだろう。
 すなわち、小川仕事の第1弾がカラスミみりん漬け、第2弾は白菜キムチ、第3弾が出汁屑粉末、そして第4弾が煮リンゴと、続々と立派な成果を生んでいるというわけだ。
 1つ1つを披露して、小川仕事の意義をオットーに説明し、そして再び、「まだ未完成だけどね」と断りつつ、カラスミ容器の蓋を開け、一切れ切って差し出すと、
 「まあ、おいしいけれど、それって全部、残り物を復活させたってこと?」
 一刀両断。するとそこを通りかかった我が秘書アヤヤがプッと吹き出して、
 「小川仕事じゃなくて、それはアガワ仕事ですね」
 どいつもコイツも、好きに言わせておけばいい。でも確かに、本来の「小川仕事」とは主旨がだいぶずれてきた気配はある。思えば以前に作った「海苔の佃煮」も、湿気た海苔を利用した。作りすぎて何人かの友人に「自家製の海苔の佃煮です」と半ば無理やり分けたのであるが、
 「甘すぎなくて、おいしかった」
 「パンに塗ってトーストしたらおいしかったですよ」
 各方面からお褒めの言葉が届いたのである。決して失敗ではなかったはずだ。ま、お世辞半分ではあるだろうが。
 そして今回の「カラスミみりん漬け」も、1カ月を待つことなく、ちびちびと順調に消化されていった。「まだ固いね」と試食を繰り返した末、ちょうど1カ月目にあたる昨晩、最後の一切れを食卓に出したら、ようやく芯までみりんの染み込んだ、しっとりしたカラスミを味わうことができた。
 小川までの道のりは遠かった。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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