やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲(20)

トラウマの豚

執筆者:阿川佐和子 2019年6月9日
エリア: 日本
「さてさて、角煮の結果はどうなった」

 

 圧力鍋を買った。
 私は長らく、この鍋を避けてきた。便利だという噂は耳にしていたものの、どことなく怖い。爆発するのではないかという恐怖がつきまとう。それなのに、今になってなぜ買ったか。
 ある日、オットーが「ゴルフ場の食堂で食べた酢豚丼がものすごくおいしかった」と言った。
 「酢豚丼? そんなものある?」
 問い直すと、
 「ものすごく柔らかい厚切りの豚肉がご飯の上に乗っていて、甘くて旨かった」
 厚切りの柔らかい甘い味の豚肉……。
 「トンポーロウのこと?」
 「トンポーロウ? そんな名前じゃなかったと思う」
 「じゃ、東坡肉(とうぱにく)?」
 「うーん、それも違う」
 しばしの協議とネット検索の結果、
 「角煮だ!」
 ということが判明した。加えて「角煮」は圧力鍋で簡単に作れるという情報も、オットーは入手してしまった。気がついたら、我が家に圧力鍋が届いていた。
 こうして私の圧力鍋生活が始まった。
 オットーが圧力鍋の取扱説明書を熟読している間に、私はスーパーへ走る。豚の三枚肉のブロックを買うためだ。ついでに牛すね肉のかたまりもカゴに入れる。圧力鍋を使えばきっと牛すね肉も簡単に柔らかくなるだろう。あとは大根と里芋と……。怖がっていたわりに、あれこれ試してみたくなってきた。
 そもそも豚の角煮とトンポーロウはどう違うのか。曖昧な理解のまま食べ過ごしてきたが、せっかくのチャンスだから調べてみることにした。結果、まずトンポーロウ(日本語読みにして東坡肉)は、そもそも蘇東坡という中国の高名な詩人が作って評判になった豚肉料理のことらしい。「東坡さんの肉」という意味か。その伝でいくと麻婆豆腐も人名からつけられた名称だと聞く。
 「麻バアサンの豆腐」
 清王朝の時代、四川省の都、成都の郊外に陳氏という人の妻が住んでいた。夫に先立たれ、料理屋を営んで暮らしていたが、高価な材料を使うことが難しく、手に入りやすい豆腐と羊肉を調達して1品作ってみたところ、おいしいとあちこちで評判が広まり、「(陳氏の)奥さんがつくった豆腐料理――麻婆豆腐」と呼ばれるようになる。「婆」は「妻」のことでバアサンではなかった。ついでに、「麻」は名前ではなく、「あばた」の意。その奥さんの顔にあばたがあったことに由来する。
 麻婆豆腐は圧力鍋で作らない。中華鍋が適する。知ってるよって? そうでしょうね。
話を戻す。続いて角煮と東坡肉の違いはなにかと調べてみるに、どうやら「皮」がついているか否かにあるらしい。東坡肉は三枚肉を皮付きのまま、下茹でしたのち、油たっぷりの中で揚げ焼きをして、さらに醤油、紹興酒、鶏ガラスープ、八角などの香辛料を加えたタレに漬け込み、長時間、蒸す。蒸すことにより余分な脂が落ち、表面の皮はコラーゲンたっぷり、脂はほどほど、肉はトロントロンに柔らかくなるという具合だ。一方の角煮は蒸して作るのではなく、煮込み料理だそうな。皮はない。
 そうだったんだ! と、私は驚いた。同時に苦い記憶が蘇った。
 以前にも書いたことがあるが、私にとって東坡肉はトラウマ料理なのである。
 たしか中学生の頃だった。なぜか母が家を留守にして、私が父のために晩ご飯を作るはめになった。私は張り切った。よし、頑張って東坡肉を作ってみよう。本格中国料理の本を繙き、そのとき使ったのが皮付きの豚肉ブロックだったかどうかは定かでないが、とにかく入念なる下準備をし、蒸し器を取り出し、おそらく6時間以上、台所で立ち働いた末、皿に盛り、書斎に父を呼びにいった。
 「できました!」
 父はいそいそと食卓につき、「そうかそうか。今日は佐和子が作ってくれたのか」といつになく優しい声で皿を覗き込み、箸を握った。私は父の様子をじっと見守る。父は私の作った東坡肉の1かけを箸でちぎって口に入れた。顎を上下に動かして、しばらく味わって……と思われたその直後、父は私の顔を見て、ニコニコ語りかけたのである。
 「よし、明日はなんか旨いもん、食いにいこう!」
 それが精一杯の私に対する心遣いだったと、今はかすかに、かすかにですけどね、納得できる。露骨に「まずい!」とは言ってなるまい。でも嘘はつけない。はて、なんと言ってこの場をしのごうか。その結果、口から出てきたのは、「明日は旨いもん」だったのであろう。しかし娘の私にしてみれば、こんな情けないことがあるか。何時間もこの豚のかたまりと闘ってきたのである。丁寧に糸で巻き、下茹でをし、たっぷりの油の中に投入し、火傷覚悟で菜箸片手に何度も裏返し、焦げ目をつけ、醤油やスープや八角を混ぜて作った汁にしばらく浸けて、ときどきひっくり返し、皿に載せた状態で蒸し器の中に置き、柔らかくなあれ、柔らかくなあれと祈りながら蒸し器の中を覗いて味見し、そしてようやく完成させたのである。その労苦を知ってか知らずか、なんと無情な父の一言。私は泣いた。泣いたと記憶する。父が慰めてくれたか、はたまた、「しかたないだろう、だって豚肉、固いんだもの」と開き直ったか、そこらへんはよく覚えていないけれど、たしかに私の作った東坡肉は、固かった。その事実を、私は秘かに知っていた。つまり、父が褒めてくれないであろうことをちょっとだけ予測していたのである。でも期待した。
 「うん、なかなかよくできているぞ。頑張ってくれてありがとう」
 そんな言葉は一語とて、父の口から発せられなかった。
 その事件以来、東坡肉に挑んだことは1度もない。半世紀の時を経て、はたしてアガワは圧力鍋で豚肉をトロトロにさせることができるでしょうか! ここでいったんコマーシャル。
 宅配便の若者によって我が家に圧力鍋が届いた日、ウチにはもう1つ、届いたものがあった。タケノコである。隣家からのお裾分けだ。これを新鮮なうちに炊かなければと思っていた矢先、圧力鍋が到着した。
 東坡肉に挑戦する前にタケノコで鍋の使い勝手を得ておこう。取扱説明書のうしろに料理のレシピが載っている。ペラペラめくると案の定、「タケノコの茹で方」が現れた。
 材料――タケノコ。米のとぎ汁。鷹の爪。下ごしらえ――穂先を切り落とし、切り込みを入れる。
 上記の材料を圧力鍋に入れたら、あとは蓋でしっかり密閉し、上におもりを乗せ、強火で沸騰するのを待つだけだ。おもりがシューシューカタカタと、けたたましい音を立てて振れ始めたら弱火にして3分。たった3分。米のとぎ汁を作る手間のほうが面倒だったぐらいである。
 実はこの1週間後、またもやタケノコを入手した。早く茹でておかなくちゃ。そう思ったものの、とぎ汁を用意する暇がない。焦った私はハタと思いつく。とぎ汁を作らずとも、米そのものを入れればいいんじゃないの? ついでに長く使いそびれていた塩麹も入れよう。
 こうして私は手早くタケノコを圧力鍋に放り込み、ひたひたにかぶる程度の水を注ぎ、鷹の爪と塩麹大匙1杯、米をサラサラサラッと振り込んで、強火。沸騰後弱火にして3分。そのあと火を消して、仕事に出かけた。
 帰宅して蓋を取ってみると、まあ、タケノコ君が柔らかくなっているではあーりませんか。タケノコの下には粥状になった米がたっぷり沈殿している。そうか、米はお粥になるんだね。ためしにスプーンですくって口に入れてみたら、
 「あら、おいしい!」
 タケノコの香りと塩味がほどよく染み込んだ、まるで京都の朝粥のような深い味わい。翌朝、温め直して塗りの椀に盛り、梅干しと昆布を添えてオットーに差し出した。
 「朝粥どすえ」
 微妙な表情を見せたものの、一応、おいしいと言っておった。これがタケノコを茹でたあとの残り汁と、知っている気配がなきにしもあらずだが、決して「明日は旨いもん、食いにいこう」なんてことは呟かない。そこはわきまえがいいというか、私のことが怖いというか。
 タケノコに成功したら、私はすっかり気をよくした。次は何でカタカタ言わせてみようか。思いついたのは、リンゴである。ふやけ始めたリンゴが段ボール箱にまだ残っている。あちこちに「手作りジャムです」と恩着せがましく配ったリンゴバターもだいぶ消化した。よし、残るリンゴを一挙に煮てしまおう。
 私はジャム工場の女子作業員になったかのごとく、無心で四つ切りにし、芯の部分を切り取って、皮を剥くのは省略し、大きめ一口大にしてどんどこ圧力鍋の中へぶち込む。合計5個分。そこへ水を少しだけ入れ、重い蓋で密閉。おもりをつけて強火。だんだん慣れてきた。シューシューカタカタおもりが歌い始めたら火を消して、圧力が下がるまでしばし置く。蓋を開けたあと、砂糖と干しぶどうとバターを加え、さらにレモンと、ブランデーなんぞを数滴垂らして煮詰めれば出来上がりだ。
 普通の鍋で煮るのと比べて、味に違いはあるかと聞かれたら、よくわからない。圧倒的長所は短時間で柔らかくなることだ。そう考えると、なんといっても芋類が適するだろう。リンゴの次は芋に挑戦。新たに買った里芋はさておいて、去年の暮れから冷蔵庫で鎮座していた里芋がそろそろ限界に達しつつある。これをとりあえず圧力鍋で柔らかく煮ておこう。皮ごと煮て、熱いうちに皮を剥き、冷蔵庫に保存しておけばいつでも惣菜になる。
 これはおおいに成功した。柔らかくなった里芋を別鍋に入れ、醤油と砂糖とみりんにからめて数分炊いて食卓に出したところ、
 「これ、新鮮な里芋を使ったの?」
 美しい誤解をされた春の宵。
 さてさて、角煮の結果はどうなった。もちろん、上々の出来であった。下茹でしたときに生じたスープは、生姜とネギの香りも含んで滋味深く、冷蔵庫で冷やしたのちは上部にラードができ、なにかと便利。そして本体の、トロトロに茹で上がった豚肉ブロックは、醤油と砂糖とその他の調味料とともに別鍋でしばらく煮込む。皿にはやはり圧力鍋で瞬時に柔らかくなった大根を添え、
 「なんて簡単なのでしょう!」
 大根の茹で時間を含めても、総調理時間はほんの1時間弱だ。もはやトラウマは完全に消え去った。あ、角煮が食べたいの? すぐに作るから待ってね。ってなもんだぞ。
 「うん、おいしいよ。柔らかい」
 オットーもご満悦の様子だ。お父ちゃん、化けて出てきたら作って差し上げますぜ。
 しかし、ここでかすかな疑問が生じる。これは角煮であり、東坡肉とは違う。皮付き東坡肉は、果たして圧力鍋で成功するか。そういえば牛のすね肉も買っていた。えーと、しばらく時間をください。圧力鍋、疲れました。

フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
この記事をSNSにシェアする
執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
クローズアップ
comment:0
icon
  • 記事の閲覧、コメントの投稿には、会員登録が必要になります。
フォーサイトのお申し込み
クローズアップ
  • 24時間
  • 1週間
  • f
  • 最新コメント
  • 最新トピック
  • 新着
  • 高評価
  • コメント数順
back to top