やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲 (21)

パンパンパン

執筆者:阿川佐和子 2019年7月15日
エリア: 日本
「そこにまぎれもなくパン屋さんがある幸せ」

 

 春の爽やかな風に乗って鼻をくすぐるのはパンの香りである。
 街を歩いているとき、「あ、パンの匂いだ」と気づいて顔を上げると、そこにまぎれもなくパン屋さんがある幸せ。
 いい香りというのは、実に心を和ませてくれる。かつて渋谷駅の構内にお茶屋さんがあり、たしかJRと井の頭線改札口をつなぐ2階の隅だったと記憶するけれど、その前を通るたびに私は深呼吸をしたものだ。夕方の混雑時。早く帰らないと叱られる。受験勉強はつらいなあ。寒くて厭になっちゃうよ。そういうとき、ふっとお茶を煎じるかぐわしい風が流れてくると、瞬間的にホッとした。
 花の香りもしかり。今年の春先は寒暖の差が激しく、花も咲きどきを迷ったか、いつになく早くから香りが漂ってきたので驚いた。例年なら梅雨の気配迫る季節に咲くとおぼしきスイカズラの甘い香りである。いつも通る坂道の途中、小さなビルの壁面に張りつくかのごとく茂っている蔦に、白い小さな花が咲き乱れていた。この香りを嗅ぐと、同時に必ず浮かんでくる歌がある。ハニーサクル・ローズという歌で、私はスイングル・シンガーズのハーモニーによって知った。ハニーサクルはスイカズラの英名である。エブリ ハニビー♪ と、最初のフレーズを歌い出した途端、次の歌詞が出てこない。あとはルッル ルルルーとハミングで済ませ、最後の「ハニーサクル・ローズ♪」で歌詞に戻して、おしまい。今度、ちゃんと覚えよう。そう思いつつ、スイカズラの香りを胸いっぱいに吸い込んで通り過ぎるのが、毎年恒例の行事である。
 パンの話でしたね。
 最近、近所に「食パン」が評判の新しいパン屋がオープンした。通りすがりに横目で見てみると、オープンしてからだいぶ経つのに、まだ長蛇の列ができている。店員さんが店の外に出て、行列を整理したり客に声をかけたりと、大騒ぎだ。そんなにおいしいのかい? と心惹かれる気がしないでもないが、まだ、並んで購入するまでの気力には至らない。かわりといってはナンだが、贔屓にしていたパン屋さんが、突然、閉店してしまった。こういうのは困りますね。好きなパン屋がそこしかないわけではないけれど、「よし、明日の朝は、あっちのパン屋さんはお休みだから、こっちのパン屋さんのパン・ド・ミを買ってこよう」という選択肢が1つ減ってしまうのは寂しい。ああ、あそこのパン・ド・ミはもう食べられないのかと、思うだけで悲しい。新たな食パン専門店ができたと言われても、そう簡単に心と胃袋は変えられない。今でも買い物途中に、閉店した店の前の「今年(去年のこと)いっぱいで閉店します」という張り紙をしばし睨みつけ、なんで閉めちゃったんだよおと、張り紙に向かって楯突くことにしている。
 私にとってもう1つ大切な近所のパン屋さんには、焼きたての食パンやフランスパンだけでなく、クロワッサン、シナモンロールなどのデニッシュ、キッシュ、惣菜パンや酵母パンなどが所狭しと並べられている。訪れるたび目移りがして決めかねるほどに種類が豊富だ。その店の一押しはミルクフランス。小さめのコッペパンの間に練乳が挟まれているだけの菓子パンなのに、こよなく美味である。コッペパンなんて、小学生のときに給食に出てきた印象が強いので、敢えて食べたいと思ったことはなかったが、このミルクフランス用コッペパンはパンの焼き具合もかすかな甘みも上等で、おかげで私のコッペパン認識が大きく変わった。
 あまりにもおいしいので、1度、テレビの番組で紹介したら、放映されたのち、大変な騒ぎとなった。ミルクフランスを求めて訪れる客が急増したらしい。我が秘書アヤヤにそっと覗きにいってもらったら、
 「大変です。店の前に棚が並んで、『1人2つまで』という個数限定で売っていました」
 申し訳ないことをしたと思い、ほとぼりが冷めた頃に恐る恐るその店へ赴いて、
 「先日はご迷惑をかけました」
 謝ると、
 「いえいえ。ものすごい勢いでした」
 笑って許してくださったけれど、その忙しさは想像を絶するものがあったようで、パン焼き職人のご主人は、そのあと、どうやら寝込んだそうである。
 私の友人のダンナさんは佃煮屋を営んでいる。あるときその店が、テレビで紹介されたという。
 「もうね、人生にこんなことが起きるのかって思うほど注文が殺到して、ウチのダンナ、ぎっくり腰になっちゃった」
 それまでは、今の若者にどうやって佃煮のおいしさを伝えようかと四苦八苦していた苦労話を聞いていたので、「それはよかったね」と喜んでいいのか、「大変だったねえ」と同情していいのか、迷うところである。しかも、そんなお客様続々状態が、その後もおだやかに長く続くならいいが、テレビで紹介されると、ほぼ3カ月のてんやわんやの末、ぱったり客足が減るのが常だという。某飲食店オーナーから聞いたことがある。
 我々メディア族は、よくよく店のご都合を配慮しながら食べ物屋さんを紹介しないと、かえって迷惑になる場合もあるので要注意である。だからミルクフランスのおいしい店の名前は、ここでは明かしませんのであしからず。
 で、パンの話でしたね。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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