やっぱり残るは食欲 (3)

料理本ふたたび

執筆者:阿川佐和子 2022年10月9日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
インターネットのレシピに押されつつ、料理本も次から次へと新機軸が打ち出されている(写真はイメージです)

 このところ『ごはんにかけておいしい ひとさライス』(小堀紀代美著・西東社刊)という料理本にハマっている。

 ご飯にかける料理がたくさん掲載されていて、中を開くと、いや、表紙からして食欲を存分にそそられる。白いお皿にご飯がこんもり盛られ、その上にかかっているのは肉や野菜や魚を使ったさまざまなおかずのオンパレードだ。見るだにおいしそうな写真だらけである。

 すなわちワンディッシュメニューというのでしょうか。たとえば「鶏肉とひよこ豆のトマト煮込み」とか「サーモンのスパイシーポケ丼」とか「豚肉とキャベツ、もやしのナンプラーバター炒め」とか「アボカドしらすサラダ」とか。よくよく考えれば、それらのレシピが単独で料理本に載っていたら、「ふむふむ。今度、機会があったら作ってみるか」ぐらいの興味を示す程度で終わるかもしれないのだけれど、同じ料理がご飯の上にのっているだけで、「すぐ作りたい! 早く食べたい!」という衝動にかられる。

 なぜだ?

 これぞワンディッシュの魔法ではあるまいか。とりあえず、このワンディッシュで一食が成立すると思った途端、ホッとする。肩から力が抜ける。あれこれ献立を考えなくてすむからかもしれない。昨日の晩の残り物を温めて、サラダを作って、酒のつまみになるものはないか、メインディッシュはどうしよう、汁物はなにがいいかなどと品数を指折り数えなくていい。冷蔵庫の冷気を浴びながら、どうすれば残り物の惣菜と、しなびかけた野菜と、カチンカチンに冷凍された肉のかたまりをなんとか組み合わせ、昨日とは違うメニューに仕立てあげることができるかで悩まずにすむ。

 するべきことはまず一つ。ご飯を炊く。ご飯を炊いている間に、くだんの料理本をペラペラめくり、さて今日は、本書に並ぶ全部で六十数種類のレシピの中からどれを選ぼうかと思索に耽る。なんと明るい気持であることか。まるでお洒落なブティックに入って、「いらっしゃいませー」という軽やかなマヌカンたちの声を背に、ハンガーに吊された服の数々を手で一枚ずつ横へずらしながら、あら、これ可愛いわ、あ、こっちもいいわねと吟味する優雅なひとときのようである。

 もちろん、材料が揃わなければどのレシピも作ることはできない。しかしこの料理本に載っている材料はおおむね手軽に手に入るものばかりだ。たいていのものは冷蔵庫や冷凍庫に眠っている。豚バラ薄切り肉、ひき肉、卵、ピーマン、玉ねぎ、キュウリ、長ねぎ、みょうが、なす、しょうが、ニンニクなど、確たる目的はないけれどとりあえず買っておこうと思って常備してある食材のたぐいが多い。

 ときおり、ひよこ豆とかミントの葉とかミックスナッツとかパプリカとか、普段利用することの少ない材料が書かれている場合はある。が、その一品だけ買ってきたらこのお洒落なワンディッシュができると思えば、何の苦にもならない。それでも買ってくるのが面倒だと思った場合、たとえば私はミントの葉っぱがなかったのでシソの葉を代用したし、パプリカはピーマンでいいかと判断した。ミックスナッツが必要なレシピのとき、台所の棚をごそごそ漁ったら、やや湿気たクルミの瓶詰めとピーナッツの袋入りが見つかったので、それを砕いて使った。ミックスナッツの風味には届かぬ出来であったと思うけれど、雰囲気は出た、たぶん。

 それにしても、料理本を台所に広げて料理を作るのは久しぶりである。ここ数年、何かを作ろうと思うとすぐにスマホをぽちぽち押して、レシピを検索する癖がついていた。ネットにはいろいろな人の作り方が掲載されている。同じ料理でも、人によって材料も異なれば作る手順も違ってくる。プロのレシピもあり、企業が発信しているのもあり、どこのどなたか存じ上げない料理上手のユーチューバーの動画もある。それらをいくつか見比べて、だいたいのポイントをつかんだら、自らの好みと都合(材料のありなしなど)を鑑みて、いざまな板に向かうという日々が増えていた。本棚には長年にわたって揃えた料理本が何十冊も並び、出番を待っているというのに、手に取って開く機会はめったにない。活字にまとめられた料理本の存在はかくのごとく忘れられていく定めであるのかと思うと切なくなるが、これも時代の趨勢というものか。

 かく言う私自身、料理本を出した経験がある。だいぶ昔に遡る。四十代になってからのことだ。その歳にもなって恥ずかしながら和食の基本を知らないことに気がついた。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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