やっぱり残るは食欲 (6)

だいたい母の味

執筆者:阿川佐和子 2023年1月22日
カテゴリ: カルチャー
みなさんが想い出す「母の味」は何ですか?(写真はイメージです)

 

 母が作ってくれた料理でいちばん好きだったものはなんだろう。クリームコロッケか鶏飯か。はたまたオックステールシチューかドライカレーか。かつぶし弁当も木須肉(ムースーロー)もおいしかった。そうだ、レモンライスというのもあったっけ……。決めがたい。

 私にとってクリームコロッケの最古の記憶は三歳に遡る。当時、我が家は神奈川県二宮にあった。両親はロックフェラー財団の招きによる一年間のアメリカ留学を終えて帰国した際、住む家がなかったため、知人の紹介で二宮の木造平屋を借りることにした。すでに幼い子供が二人いたが、アメリカには連れていかず、広島の兄夫婦の家に預けた。その子供二人、すなわち私と二歳年上の兄を広島から引き取って、親子四人の新たな生活が二宮で始まったのは昭和三十一年のことである。

 広島の伯父伯母には子供がなかったので、夫婦は私と兄のことを実の子供のように可愛がってくれた。おかげで私は広島の生活をぞんぶんに楽しんで、父母のことなどケロリと忘れ、ずいぶんとわがままな娘に育っていた。

 後年、父がよくこぼしたものである。

 「二宮の家でお前を抱っこして庭に連れ出し、『ほら、チョウチョが飛んでるよ』って言うと、『広島にも飛んでた』とむくれた顔でボソッと答えるんだ。何かというと広島に帰りたい、広島のおばちゃんに会いたいと言って、閉口したよ」

 親になつかぬ娘が悪かったように父は言うけれど、実際、私は二歳から三歳という記憶力と感性の醸造においてまことに大事な時期を親元から離されていたのである。物心つくかつかぬかの赤子にもっぱらエサと安心を与えてくれたのは伯母だった。その伯母を恋しいと思うのは生き物としての本能のなせる業であろう。被害者は私であるぞよ、ぷんぷん。

 まあ、こうして広島暮らしを懐かしく思いながらも少しずつ二宮の両親との生活に慣れ始めた頃のこと、事件は起きた。

 外から戻った私が玄関の引き戸を開けると、廊下の突き当たりにある台所の床に座り込み、コロッケを握っている母の姿を見つけた。母は板の間に新聞紙を広げ、炒めたひき肉とホワイトソースを混ぜ合わせてかためたコロッケに粉をまぶし、卵をからめ、パン粉をつけて成形している最中だった。

 当時の私は、人のやっていることはなんでもしたい性格だった。玄関の鍵穴に母が鍵を突っ込むや、「佐和子がやる!」と叫んで母から鍵をもぎ取ったり、兄がドアを開けようとすると、後ろから、「佐和子が開ける!」と兄を押しのけてドアの取っ手に突進したり、なにしろなんでもやってみたい年頃だったのだ。

 そんな具合であるから、母の台所仕事はすべて真似してみたかった。コロッケにパン粉をつけるという作業はまさにやってみたいランキングの上位に位置する。

 私は急いで靴を脱ぎ、長い廊下を全速力で駆け出した。二宮の家は、貧乏作家の住まいにしては広く、廊下も長かった。三歳の私にとってはそれなりの距離がある。突っ走って台所が近づいてもスピードは加速中。どのあたりで減速するべきか、まだ要領を得ていなかった。気づいたときは遅かった。勢い余って母の元へ突っ込んだ。同時に、新聞紙の上に並んでいた俵型のコロッケのほとんどを足で踏みつぶしてしまったのである。

 そのあと、父や母にこっぴどく叱られたか、コロッケの行く末がどうなったか、ちっとも記憶にない。ただ、コロッケがぐちゃりと潰れ、足の裏がべとべとになり、とんでもないことをしてしまったと思った瞬間の恐怖の感覚と、板の間の冷たい感触は、あれから七十年近く経った今でも覚えているから不思議である。

 いずれにしても、母は当時すでにあのコロッケを家で作っていたということだ。昭和三十年代の初めに、よくあんな洒落た洋食を家で出していたと、今さらながら感心する。

 このクリームコロッケの作り方に関しては以前に書いた気がするので割愛するけれど、そのコロッケ作りに自分でも何度か挑戦したものの、いっこうにあの味を蘇らせることはできない。

 母が認知症になったあと、ふと思い立って頼んだことがある。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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