やっぱり残るは食欲 (8)

リンゴの先

執筆者:阿川佐和子 2023年3月21日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
焼きたてアップルパイの匂いには逆らえませんよね……(写真はイメージです)

 晩秋から年末にかけて、リンゴの到来物が多かった。山形、山梨、青森、岩手など、各所からリンゴが続々届いた。大きさ、色は異なれど、いずれも味の甲乙つけがたし。芯のまわりに透き通った蜜が集まり、得も言われぬさわやかな甘味を醸し出している。毎日のように、あちこちの段ボール箱から取り出して、皮ごと櫛切りにしていただく。それでも食べ切れない。冷蔵庫にも入らない。でも嬉しい。ベランダのなるべく陽の当たらぬところへ箱ごと出す。寒風の中、赤や黄色のリンゴが行儀良く並んでいる光景を見るだけで、なんとも言えず豊かな気持になる。赤いリンゴに唇寄せて♪ 歌の影響か。リンゴは冬の平和の象徴だ。

 リンゴの食べ方はあまたある。人生最初のリンゴの記憶は擦りリンゴだった気がする。熱を出して寝込むと、母はよくリンゴを擦って枕元へ運んでくれた。リンゴがないときは、ミカンか桃の缶詰が出てきた。栄養になると思ったのか。果物を遠慮なく食べられるのは病人の特権だった。

 擦りリンゴはしかし、刻一刻と変色する。淡い黄色がどんどん茶色く染まっていくので急いで食べなければならない。熱に体力を奪われているときは、おいしいと思いつつ、スプーンで口に運ぶことさえ億劫になる。いったん手を止めて、ガラス鉢に入った擦りリンゴを放置する。再び食べようと思って手を伸ばすと、怖ろしいほど茶色くなっていてギョッとしたのを覚えている。

 擦りリンゴの次に衝撃を受けたのは、白雪姫の映画に登場したアップルパイだ。七人の小人の家に世話になっていた白雪姫は、小人たちが仕事に出かけて留守の間、アップルパイを焼く。細かく切ったリンゴをパイ皿に詰め、上からパイ生地をふわりとかぶせ、白雪姫はさも楽しそうにアップルパイを作っていく。軽やかに歌いながら踊りながらそれを窓辺に置く。なぜ窓辺に置くのだろう。オーブンに入れないのか。子供心に不思議に思った。が、まもなくそのわけが明らかにされる。

 アップルパイのまわりに森の小鳥が集まってきて、くちばしを使ってパイ生地にぽつぽつと穴を開け始めたのだ。ついでに小鳥たちはアップルパイの丸い縁に乗り、ぴょんぴょん跳ねながら、足の先を使って模様を描いていく。違ったかしら。白雪姫がパイ皿の縁からはみ出したパイ生地をナイフで切り落としていくと、小鳥たちが羽ばたきながら切り落とされたパイ生地をくちばしでくわえてお手伝いをするシーンもあったような。とにかくそのアップルパイを作る工程がいとも魅力的だったのを覚えている。

 そのディズニー映画を観たのはたしか小学生の低学年だったと思うが、当時、アップルパイを家庭で焼くことができるとは思ってもいなかった。お菓子作りに憧れた最初のきっかけは、あの白雪姫のアップルパイを見たときだったと思う。

 それにしても白雪姫は、アップルパイを焼いたあと、魔女から毒リンゴを差し出され、それを一口かじって永遠の眠りについてしまう。考えてみれば白雪姫はずいぶんリンゴ好きですな。原作者のグリムさんがどういう意図でリンゴを登場させたのか、ウォルト・ディズニー氏がなぜ白雪姫にアップルパイを焼かせたのか、わからない。あるいはリンゴはそもそもアダムとイブにつながる哲学的示唆でもあるのか。

 小学生にしてアップルパイ作りに憧れたわりに、アップルパイを焼いた記憶はとんと薄い。むしろチーズケーキやスポンジケーキやバナナブレッドを作った回数のほうが多いかもしれない。アップルパイは、パイが命である。パイがサクサクしていなければおいしくない。それが私の菓子作り意欲にブレーキをかけた。パイ生地かあ、難しそうだなあ……。

 パイ作りに挑戦したことがないわけではないが、なにしろ手間と時間がかかるのが難である。ついでにバターを大量に使うことに罪悪感を覚える。まだカロリーを気にする年頃ではなかったけれど、少々贅沢すぎる気がした。

 作り方といえば、薄力粉と強力粉を合わせてボウルに入れ、そこへ小さく切ったバターをたっぷり混ぜ込んで、少しずつ水を加えて練っていく。練りすぎてはいけない。しかしバターと粉と水が合体しなければパイ生地にはならない。ほどよく混ぜたら丸めてボウルから取り出し、今度は平たい場所に広げ……、といってもお菓子の先生のウチにあるような大理石の天板などはないから、普段水切りカゴが乗っているステンレスのスペースを使うことにする。まな板では狭すぎるのだ。

 きれいに拭いたステンレスの面に打ち粉をし、パイ生地を乗せ、麺棒で伸ばしては畳み、伸ばしては畳みを繰り返す。麺棒にも打ち粉をし、バターがくっつかないよう気をつけながら、伸ばしては畳み、伸ばしては畳む。そこらじゅうが粉だらけになる。ときおり冷蔵庫へ入れて冷やさなければ、バターが溶けてしまう。少し冷えたら冷蔵庫から取り出して、再び麺棒で伸ばし、畳み、伸ばし、畳む。

 パイ生地をつくるだけでも大変なのに、そこへ投入するリンゴなどの中身も調理しなければパイ菓子にはならない。そう思うとゴールがはるか遠くに感じられた。

 以前、刀鍛冶の名人、河内國平さんと対談をした。真っ赤に燃える鋼のかたまりを、何度も打つ。火花が散っても怯むことなく、向こう槌を担当する弟子と見事に息を合わせて打ち続ける。伸ばした鋼を折り畳み、また打つ。畳んでは打ち、畳んでは打ち、それを按配よく繰り返すことにより、美しく切れ味の鋭い刀が出来上がるのだと教えられた。

 「ミルフィーユみたい」

 私が思わず口走ったら、

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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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