「非核三原則」と「核の傘」――3.核武装論・核持ち込み論が否定されるべき合理的な理由

執筆者:千々和泰明 2023年5月31日
タグ: 日本 アメリカ
エリア: アジア
日米間で拡大抑止をめぐる意思疎通をさらに深める必要がある[2023年5月19日](C)時事
広島・長崎が核で蹂躙された国民的経験を背景とする非核三原則は、決して軽視すべきものではない。だが、非核三原則を思考の中心に置くことにこだわりすぎると、日本の平和に寄与している拡大抑止の全体像が見えづらくなる。同時に意識すべきは、中国、北朝鮮の核兵器能力強化を目の当たりにして俄かに高まる核武装論・核持ち込み論もまた、戦略的・地政学的な合理性を欠いていることだ。(〈2.「一時寄港」「沖縄」にまつわる二つの密約問題〉はこちらからお読みになれます)

 

大量報復戦略と日本・沖縄

 冷戦初期の1950年代にアメリカが採用した核戦略は、「大量報復戦略」と呼ばれるものであった。

 大量報復戦略とは、東側が西側に侵攻を開始し、たとえそれが核ではない通常戦力によるものであったとしても、東側に対しただちに大量の核の雨を降らせて報復するとするものである。このような大量報復戦略は、東西両陣営が対峙し合う正面であったヨーロッパにおいて、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が西ヨーロッパに侵攻することを抑止するのに有効だと考えられ、アイゼンハワー政権で採用された。

 当時は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるミニットマンや、潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)のポラリスなどの長距離型の戦略核ミサイルの製造・配備がまだ黎明期にあった。そのため、大量報復用の核として想定されていたのは非戦略核であり、射程が短いので敵対国に近接する地域に前方配備しておく必要があった。たとえば西ヨーロッパでは、1955年に西ドイツに核が配備された。

 事情は東アジアでも同様であった。なかでも、朝鮮有事や台湾有事を念頭に、中国を標的とした非戦略核の前方配備が進められた。朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦になったばかりであったし、1954年9月からは第一次台湾海峡危機が発生した。前述のように第一次台湾海峡危機の最中の同年12月から、アメリカの施政権下にあった沖縄に核が持ち込まれる。沖縄に持ち込まれた19種類にのぼる核のうち、メースBは、射程約2200キロメートルで、中国の北京、重慶、西安、大同、長春や、北朝鮮の平壌、極東ソ連のウラジオストクなどが射程圏内に入っていた。

 また1958年はじめから、韓国と台湾(およびグアムやフィリピン)にも非戦略核が配備された。韓国には、原子砲、地対地ロケット弾・オネストジョン、爆弾、核爆破資材、地対地巡航ミサイル・マタドールなどが、また台湾にもマタドールが導入された(Robert S. Norris, William M. Arkin, and William Burr, “Where They Were,” Bulletin of the Atomic Scientists, November 1999)。なおこの年の8月23日から、中国軍が台湾の金門守備隊を砲撃した第二次台湾海峡危機が発生している(10月5日まで)。

 だが以上のような極東での核の配備状況は、裏を返せば、アメリカは日本本土に核を置かずにすませた、ということになる。大量報復用の非戦略核を極東に前方配備するといっても、地域全体で考えればよく、沖縄、韓国、台湾に核を置くことができるのであれば、必ずしも日本本土に核を地上配備するまでの必要はなかったのだ。

 また核の使用の用途についても、アメリカは極東全体で考えていた。実際に沖縄に配備された核は、日本有事よりも、朝鮮有事を念頭に置いたものであった。

「エスカレーション・ラダー」が導入された柔軟反応戦略

 ところが1960年代に入ると、アメリカの核戦略そのものが、大量報復戦略から別の戦略へと移行することになる。

 この背景には、大量報復戦略の欠陥が指摘されるようになったことがあった。ソ連が西ヨーロッパを通常戦力で攻撃し、これに対しアメリカが大量報復戦略にもとづいてソ連に核による大量報復をおこなえば、ソ連はそれに対するさらなる報復として、アメリカ本土に核攻撃を加えるだろう。そうだとすると、時計の針を巻き戻して、アメリカは、自分たちの国土が灰燼化することになる危険があることを承知で、ソ連の西ヨーロッパ侵攻に対し核で大量報復するだろうか、という疑いが生じる。核戦略の信憑性が下がれば、それだけ抑止は機能しにくくなる。

 そこでジョン・F・ケネディ政権以降に登場したのが、「柔軟反応戦略」である。

 大量報復戦略が、東側からの通常戦力による侵攻に対しても大量の核で報復する戦略であるのに対し、柔軟反応戦略は、「エスカレーション・ラダー」(段階的な戦争拡大のハシゴ)を昇り降りする戦略である。つまり、相手の通常戦力には、核ではなくまずは通常戦力で対抗する。通常戦力同士の対決で紛争が収拾すればそれでよいが、もし対決がエスカレートした場合は、次はたとえば非戦略核同士の局地的な核戦争の段階に移る(これ以外にも多くの段階がある)。そしてハシゴを昇っていくと、戦略核と戦略核の全面対決、すなわち相互確証破壊にいたる。

 このように、最初の軍事衝突から、アメリカとソ連の共倒れまでのあいだに、いくつもの段階を設けることで、ソ連の西ヨーロッパ侵攻に対してアメリカが報復するという信憑性が、大量報復戦略をとる場合よりも高まることになる。

 そして大量報復戦略から柔軟反応戦略への移行は、前方配備された非戦略核の役割にも影響を及ぼすことになった。

 柔軟反応戦略をとる場合、東側が通常戦力で西側への侵攻を開始した際には、西側も核ではなく、通常戦力で対抗することになる。言い換えると、東側が初手から核を使ってこない限り、西側も初手から核を使わない。初手では使わないような兵器を敵対国の近接地域に前方展開しても、開戦後に最初に敵の餌食になるだけである。このように相手からの攻撃に脆弱な核は、むしろ後方に下げておいた方がいいだろう。とすると、沖縄からも核を引き揚げた方がいいということになる。

 だが、ここにはもう一つの選択肢がある。柔軟反応戦略をとる場合であっても、エスカレーションのハシゴのなかで、通常戦力同士の対決と戦略核同士の対決のあいだに、「非戦略核同士の対決の段階」を入れ込んでおくことが好ましいという考え方だ。そうすれば通常戦力同士の対決が一気に戦略核同士の対決に進まずにすむからである。そうすると、先ほどの議論とは逆に、やはり敵対国の近接地域に非戦略核を前方配備しておいた方がいいかもしれない。

 NSC文書によると、実際に1969年4月までに米統合参謀本部は、沖縄から核を撤去すると、起こりうる核紛争を地域レベルに抑え込む能力を低下させることになるのではないかと懸念していた。

 整理しよう。大量報復戦略をとる場合は、敵対国の近接地域に大量報復用の非戦略核を前方配備しておくのが効果的である。一方、柔軟反応戦略をとる場合には、核を後方に下げることがありうる。そして後方に下げるかどうかの判断は、初手では使わない非戦略核を敵対国の近接地域に前方配備しておく脆弱性に対する懸念を重視するのか、それともそうした脆弱性にもかかわらず、エスカレーション・ラダーのなかで非戦略核での対決の段階を入れ込んでおく効果の方を重視するのか、によって変わってくる。

沖縄から核が撤去された戦略的理由

 アメリカが日本本土の代替地であった沖縄から非戦略核を撤去したのは、柔軟反応戦略下のエスカレーション・ラダーのなかで非戦略核同士の対決の段階を入れ込んでおく効果を、非戦略核の前方配備の脆弱性に対する懸念ほどに重視しなかったからである。その理由は少なくとも五つある。

 第一に、そもそも論としての、通常戦力の優位性である。

 ヨーロッパでは、通常戦力のレベルでアメリカを中心とするNATO(北大西洋条約機構)よりもワルシャワ条約機構の方が優位であった。したがってワルシャワ条約機構軍の西ヨーロッパ侵攻を抑止するうえで、西側の核の存在は不可欠であった。

 これに対してアジア太平洋では、通常戦力で西側が優位であったため、そもそも東側の通常戦力による侵攻を抑止するうえでヨーロッパの場合ほど核が必要とされたわけではなかった。そのうえ戦争になれば陸上戦となるヨーロッパとちがって、海に囲まれた日本に上陸しようとする敵に対し核を用いる蓋然性はそれほど高くはなかった。

 第二に、中国に対する抑止には……

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カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
千々和泰明(ちぢわやすあき) 千々和泰明(ちぢわ・やすあき)1978年生まれ。防衛省防衛研究所主任研究官。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了。博士(国際公共政策)。内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査などを経て現職。この間、コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。専門は防衛政策史、戦争終結論。著書に『安全保障と防衛力の戦後史 1971~2010』(千倉書房、日本防衛学会猪木正道賞正賞)、『戦争はいかに終結したか』(中公新書、石橋湛山賞)、『戦後日本の安全保障』(中公新書)など。
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