アル・カエダ「日本への浸透」を追う

執筆者:剣崎諭2004年9月号

アル・カエダ幹部リオネル・デュモンが日本潜伏中に築いたネットワークは、相手の国籍も、活動地域も、捜査当局の想像をはるかに越えて広がっていた。 埠頭には、中古タイヤや家電製品が山積みになっていた。その間を縫うように、ロシア人の船員が自転車を走らせている。新潟市の中心街から車で三十分ほどの新潟東港。佐渡島への玄関口である新潟西港に比べれば殺風景だが、東港はロシアの木材貨物船を中心に年間千二百隻の外国籍船舶が入港する日本海側最大の貿易港である。 港の周囲を見渡すと、鉄製の柵に仕切られた小さなプレハブ小屋が並ぶ。その数は優に百を超え、大半がイスラム圏出身とみられる名前を看板に掲げていた。それは、ロシアや中東向けに中古車を輸出するパキスタン人やバングラデシュ人らの事務所だった。 モスク(イスラム教寺院)のポスターを張りめぐらせた事務所は、日本のイスラム社会の一端をうかがわせた。看板に記載された番号に電話を掛けると、すぐに携帯電話に転送される。ここでは、商談は携帯電話かファクスを通じて行なわれる。事務所の中では、浅黒い顔の外国人が、電話を耳に当てながらせわしなく動き回っていた。 そんな中古車輸出業者の事務所が立ち並ぶ一角に、白い肌の男が姿を見せたのは、日本中を沸き返らせた日韓共催のサッカー・ワールドカップが閉幕した直後の二〇〇二年七月下旬のことだった。

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