アメリカの空を、幽霊たちが彷徨っている。かつてヨーロッパを徘徊した妖怪とは異なるが、現実に対する憤りは同じか、それ以上に強い。外に向けられた幽霊たちの怒りは、やがて鎮静化するにしたがって内面へ向かい、鋭く重く、際限のない自己省察が始まる。その時、幽霊たちは、流行りの精神クリニックの扉をたたく。 キーワードは、「スプーク」(spook)。辞書をひくと、原義は「幽霊」。何も話さないために、その存在が見えない人。俗語では、「黒人」。フィリップ・ロスの長編『ヒューマン・ステイン』(上岡伸雄訳、集英社)は、有名私立大学の元古典学教授コールマン・シルクを主人公にした長編小説。講義のおり、欠席ばかりでいっこうに姿を見せない黒人学生を「スプーク」と表現したことから舌禍事件に巻き込まれ、教授の地位を追われたシルクは、ほぼ同時に永年連れ添った妻を心労で亡くし、孤独になる。物語は、失意の晩年を過ごすシルクの凄まじいまでの怒りをエンジンに展開してゆく。『ヒューマン・ステイン』の時代設定は、クリントン政権二期目の一九九八年。「政治的正しさ」(political correctness)が過度に求められた時代である。

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