いま南部スーダンで独立を問う住民投票が行われている。1月9日に1週間の予定で始まったが、投票が殺到していることから延長されたようだ。独立賛成票が多数となるのは確実視されている。この独立投票は、南北内戦を終結させた2005年和平協定の目玉だった。ハルツームの政権は抵抗したが、アメリカが説得した。
 南北内戦終結後、副大統領として入閣した(南部)スーダン人民解放軍のガラン最高司令官は、独立よりも南北融和の統一スーダンを考えていたといわれる。しかしガランは、副大統領就任直後に、彼を支援してきたウガンダのムセヴェニ大統領と会談した帰路、乗っていたヘリコプターが墜落して亡くなった。ガランの死後、南部スーダンは独立の方向に急傾斜した。

 スーダンは複雑な国だ。北部のナイル川流域には紀元前にクシュ王国が栄え、エジプトを征服していたこともある。エジプトを離れたのちはメロウェに首都を構えていた。有名なメロウェ遺跡があるところだ。ここではいま、中国が巨大ダムを建設している。
 近代に入ると、当時オスマン・トルコ帝国の支配下にあったエジプトに占領された。そのエジプトは19世紀後半、実質上イギリスに支配されたから、「エジプト領スーダン」はトルコ、エジプト、イギリスの錯綜した従属関係の下にあった。そこに、北部スーダンのナショナリズムともいうべき、イスラーム神秘主義の「マフディー(救世主)運動」が起こる。マフディー運動は外国勢力を駆逐して、ハルツームにマフディー政権を建てた。
 このときハルツームで、イギリスのゴードン将軍が斬首されている。イギリスの報復を受けてマフディー政権は倒されるのだが、これがきっかけとなってイギリスのアフリカ大陸侵攻が本格化した。スーダン侵攻軍を指揮したキッチナー将軍が、ス-ダン征服後南アフリカのボーア戦争に転戦して勝利したころには、アフリカ大陸の列強分割が完成したのである。アフリカ分割の過程で、大陸を縦断南進するイギリスと横断東進するフランスが出会って一触即発の事態となったのも、スーダンのコドク(ファショダ事件)だった。アフリカの近代植民地化はスーダンから始まったといえる。

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