医療ツーリズムで稼ぐタイの心配事

執筆者:竹田いさみ2011年2月25日

 チュニジアに端を発し、エジプトでの政権転覆に勢いを得たアラブの民衆運動は、ドミノ倒しさながらに、リビア、アルジェリア、モロッコ、イエメン、バーレーンなど、中東・アフリカ諸国に大きな広がりを見せた。この民衆革命の影響が思いがけないところにも波及し、タイの観光当局者の顔を曇らせている。これから真夏に向けてタイを訪問する予定のアラブ人富裕層が、軒並みキャンセルするのではないかというのだ。とにかく大人数でホテルに宿泊し、金銭を湯水のように使ってくれるアラブ人は、有難いお客である。例年であれば、6月から8月にかけてのバンコクは、アラブ人の恰好の避暑地として活況を呈するはずなのだ。
 タイには世界中から観光客が吸い寄せられてくるが、今最も熱いタイの観光の目玉は、「医療ツーリズム」だ。医療ツーリズムとは、病気や怪我の治療を目的とする海外渡航のこと。外科手術や脳梗塞の治療などは、その後のリハビリ治療が往々にして長期化するため、患者に同伴する家族はホテルに長期宿泊し、看護の傍らで観光を楽しみ、時間を潰すことが日常化する。このため観光産業も一緒に潤う医療ツーリズムの経済効果は大きい。

上得意のアラブ人富裕層

 タイが基幹産業として医療ツーリズムに注目したのは、1997年に発生したアジア通貨危機であった。タイ・バーツが暴落し、企業倒産が相次ぐ中、国内の中産階級が高額の治療費を払えなくなり患者が激減。逆にバーツ安で海外からの渡航者にとっては貨幣価値が高まったため、海外から患者を獲得する発想へと切り替えたのが、医療ツーリズム産業の興隆につながった。タイは世界的にも医療ツーリズムの“メッカ”と評される拠点国で、シンガポールやインドがこれに続く。
 1年間における世界の医療渡航者(ツーリスト)は約600万人で、半数にあたる300万人がタイ、シンガポール、インドに滞在する。なかでもタイはいち早く、医療ツーリズムに目覚めた。例えばバンコク市内中心部にある私立バムルンラード国際病院は、東南アジア屈指の高度医療を売り物にしており、1年間に受け入れる患者の数は外国人を含めて120万人を超える。正面玄関を1歩入ると、高級ホテルのロビーのような雰囲気が漂い、いずれの患者も安堵感に包まれるような工夫が随所に施されている。
 医師は米国人、イギリス人、オーストラリア人などの多国籍チームで編成され、アラビア語や日本語をはじめ、多くの通訳スタッフが外国人の患者を支援しており、外国人患者へのサービスには定評がある。バンコク駐在の日本人なら、1度はお世話になる病院だ。120万人の患者のうち、3割以上の42万人が外国人(2009年)。しかも32万人の外国人が海外から渡航してきた医療ツーリストで、残りの10万人がバンコク駐在の日本人を筆頭とする外国人だ。海外から渡航してくる32万人の患者が家族を同伴してくれば、倍々ゲームで渡航者は増えていく寸法である。競争相手のバンコク病院は、バムルンラード国際病院に対抗して、薬を渡す窓口ではクラシック音楽を流し、約15カ国語の通訳を常駐させるなど、患者の争奪戦にしのぎを削っている。アラブ富裕層の患者をターゲットにした医療ツーリズム産業を眺めていくと、そこには欧米系の白人経営者が企業戦略を練る姿を垣間見ることができる。
 2001年の9・11同時テロ事件で、アラブ人やイスラム教徒が欧米諸国で白眼視され、行き場を失ったアラブの富裕層が避暑、観光、治療を目的に目を向けたのが、タイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国であった。タクシン元首相の追放劇で始まった一連の政治混乱によって、タイへの観光客が減少する中、アラブの富裕層は相も変わらずバンコクを訪問してくれた上得意であった。見るからに羽振りの良いアラブ人の男性が、大家族を連れて練り歩く――タイのバンコクには“リトル・アラブ”と呼ばれるアラブ人街があるが、そんな真夏の風物詩も今年はあまり期待できそうもないと、ホテル関係者は予約状況の低調を嘆く。

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