学術調査では解けない応神天皇の謎

執筆者:関裕二2011年3月3日
大阪府羽曳野市にある応神天皇陵 (C)時事
大阪府羽曳野市にある応神天皇陵 (C)時事

 2011年2月、宮内庁は第15代応神(おうじん)天皇が眠る(とされる)誉田御廟山(こんだごびょうやま、大阪府羽曳野市。全長425メートルの巨大な前方後円墳)の調査を許可した。天皇陵の学術調査ははじめてだけに期待が集まるが、3時間以内に切り上げねばならぬこと、遺物を持ち出すことが禁じられていることなど、あまりにも制約が多く、たいした成果は上がらなかっただろう。  ただし、宮内庁を責めるべきではない。天皇陵を発掘しなければ古代史を解きあかすことはできないと主張する学者も多いが、これ自体が間違いなのだ。  問題の第1は、考古学者が冷静な判断ができなくなっていること。今話題に上っている邪馬台国論争がいい例だ。纒向(まきむく)遺跡から邪馬台国の決定的証拠が挙がっていないのに、「纒向の時代と邪馬台国の時代が合っている」という事実だけで、邪馬台国と纒向をイコールでつなごうとしている。これは、科学者の発言とは思えない。  第2に、文献学の行き詰まりという問題がある。  じつを言うと、史学者は6世紀以前の歴史を、『日本書紀』や『古事記』といった文献から解きあかすことができないのだ。原因ははっきりしている。史学者が固定観念に縛られて、せっかくのヒントを、台無しにしているからである。古墳時代を巡る日本史の教科書の記述が面白くないのは、このためだ。  考古学が進歩して発掘が進んでも、6世紀以前の歴史の文脈、人の歩みをたどれなければ、何の意味もない。物証がそろっていても、動機がわからなければ、犯罪の立証がむずかしいのと同じである。動機どころか、犯人が見つからないのが、古代史の現状と言っていい。  その点、誉田御廟山が今回発掘調査を受けるという話は、象徴的な事件かもしれない。なぜなら、応神天皇は、古代史の「ヘソ」だからだ。ところが、「ヘソ」であることに、史学者はまだ気づいていない。 『日本書紀』の応神天皇にかかわる記述の中に、ヤマト建国を解明するための多くのヒントが埋もれているのに、史学者は「取るに足らないお伽話」と斬り捨ててしまっているのである。

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