「政治の知性」を再建するための「検証作業」

執筆者:柳澤協二2011年7月19日

 近代軍事学の「開祖」であるクラウゼヴィッツは、政府、軍、国民を「戦争の三位一体」と称した。すなわち、戦争には、国民の感情、軍のプロフェッショナリズムと政府の政治的知性という3つの側面が融合しているという。
 戦争の本質は原始的な暴力の行使であって、憎悪と敵意という感情に裏付けられるが、それは主として国民に属する。また、戦争には様々な予測外の事態に応じた臨機の判断が必要となるが、それは主として将帥の「アート」に属する。さらに、戦争は政治の手段であって、戦闘だけでなく政治的妥当性という冷静な知的判断に左右されるが、それは主として政府に属する。
 戦争の敗北は国の破局を意味する。勝ったとしても、イラク戦争後の米国のように国は疲弊し、破局のふちに立たされる。今日の戦争に勝者はいない。「政治の手段としての戦争」が引き合わないものとなった今日、「戦争は他の手段をもってする政治の継続」という有名な命題は、「政治は他の手段をもってする戦争の継続」と読みかえなければならないだろう。それは、今日の政治を評価する指針となりうる。

戦争ならとうに敗北

「資質を欠く」リーダー (C)時事
「資質を欠く」リーダー (C)時事

 今日でも、戦争に至らない多くの国家的危機がある。危機を戦争や国の破局に至らしめないことが政治の最大の使命となった。さらに、国民感情は、メディアによって増幅され、情報ネットワークによって即時に国境を超える。また、政策遂行の装置としては、官僚や学者など「軍」以外の様々な専門家集団が必要とされている。いずれも、政府のコントロールを複雑にする要素となっている。  危機が多様化し、その対応が複雑化している現代社会にあって、危機を克服して国益を実現するためには、「危機管理の三位一体」が問われることになる。より端的に言えば、国民をいかに説得し、専門家集団をいかに統合して機能させるか、という「政治の知性」、今日風に言い換えれば「政治の健全な指導力」が問われることになる。  こうした観点で今回の災害、原発事故に関する政府の対応を見ると、官邸が、状況の深刻さを認識できなかったために損害を拡大し、情報開示の混乱によって国民を不安に陥れ、さらには専門家集団のアートに委ねるべき部分に余計な介入を行なうなど、危機管理の原則に反する多くの逸脱があった。災害でなく戦争であったなら、とうに敗北しているケースだ。  それは、菅首相の個人的性向に起因する逸脱かも知れない。だが、問題は、なぜそのような「資質を欠く」リーダーが登場したのか、ということだ。まさか大震災があるとは思わなかった、というわけではあるまい。そうだとすれば、真の原因は、日本政治の劣化にある、と考えるのが自然だ。  危機は今回の災害だけではない。今日の日本は、来るべき首都直下地震や東南海地震だけでなく、安全保障面でも、台頭する中国や揺れ動く中東情勢などに起因する新たな危機に直面している。経済面でも、すでに慢性的な危機の時代を迎えている。  危機における政府の役割をわきまえた「政治の知性」を再建しなければ、日本は、地震だけでなく、世界政治の地殻変動による津波に埋没してしまうだろう。

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