中国に強制送還され北京国際空港で逮捕された頼昌星容疑者 (C)AFP=時事
中国に強制送還され北京国際空港で逮捕された頼昌星容疑者 (C)AFP=時事

 2011年7月23日は1年後の秋からの中国共産党の指導体制を占うに当って、分水嶺を形成した可能性がある。2つの要因が重かったからだ。ひとつはアモイを舞台に起きた巨額密輸事件の主犯格、頼昌星がカナダから強制送還され、北京国際空港で逮捕されたことである。そしてもうひとつは浙江省温州市で起きた「和諧号」の脱線転覆事故である。前者は胡錦濤総書記が図って実施したものであり、後者は事故が切り捌いた中国社会の断面の露出である。  中国の今後の政治変動を占ううえで、どのような分析枠組みが有効なのかが即座に試されよう。いまだ世界中の中国分析者にあっても確たる説はない。

宮崎市定に学ぶ

 もし生存中ならば門をたたいてみたいと私が思うのは、京都大学で東洋史を講じた宮崎市定(1995年死去)である。たとえば中公クラシックスに収納された『中国政治論集』は間違いなく、分析枠組みをつくる手掛りを提供してくれる。ちなみにこの論集では宋の王安石から毛沢東までを一貫した視点で整頓している。当然のことながら、その延長線上に存在する胡錦濤そして習近平、李克強までをも包括できるものである。長い歴史を通して流れる中国の政治活動の核に相当するものを明瞭に提示したものといえよう。宮崎のメガネを今回は借用する。
 司馬遼太郎は今日までをたどる日本の歴史は鎌倉時代を起点とすればよいと述べたことがある。「名こそ惜しけれ」という鎌倉武士の登場によって、王朝貴族の歴史が終ったところから今日に至る日本の歩みがある、という認識といってよいだろう。宮崎市定は「文人出身の官僚が軍隊を統率し、文民統制の新原則が確立した」宋からが、今日の中国の研究に有用だという視点を提示した。
 政治変動のひとつの起源は「腐敗」をどうするかであり、もうひとつは異民族からの圧迫に対しての「華夷(かい)の弁」をどう確立するのかという中国ナショナリズムであるという枠組みは今日に至るまで有効だ。
「腐敗」に対しては宦官による役人に対する監視制度から始まり、明の時代には総督と巡撫(じゅんぶ)という、実行と監視の組み合わせが用いられるようになる。清時代には所々に満州人を交え配置するという手法が用いられたが、官僚の「腐敗」問題は消えることがなかった。ここから官僚の教育問題が時の政変と結びつくという機縁が繰り返されることになる。かの文化大革命もまたこうした文脈で把握されるべきというのが宮崎学説である。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。