世界遺産に登録された中尊寺の金色堂[文化庁提供](C)時事
世界遺産に登録された中尊寺の金色堂[文化庁提供](C)時事

 中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)が、ようやく世界遺産に登録された。中尊寺は法隆寺や東大寺と同レベルの至宝であるにもかかわらず、登録は遅れに遅れた。日本人自身の認識と関心が低かったためではあるまいか。  いまだに、中尊寺を「京の亜流」と考えている人が多い。藤原清衡(きよひら、1056-1128)は都から工人や仏師を呼び寄せ、黄金をふんだんに使い、贅をこらして金色堂を建立しているため、成金趣味のイメージも、どこかにある。  だが、どれもこれも誤解なのだ。中尊寺の美しさは、飛び抜けている。同時代の京の仏教美術を凌駕している。なぜ、「京の真似」であった中尊寺が美しいのかについては、9月に発行される『芸術新潮』で詳述するが、それよりも、今回注目しておきたいのは、中尊寺の戦略上の意味と、奥州藤原氏の夢についてである。

「藤原姓」は方便

中尊寺の北側を流れる衣川 (筆者撮影)
中尊寺の北側を流れる衣川 (筆者撮影)

 中尊寺のすぐ北側を東西に小川が流れている。これが衣川(ころもがわ)で、俘囚(ふしゅう、朝廷に恭順した蝦夷=えみし=)や蝦夷は、この川から南側に立ち入ることを許されなかった。つまり、中尊寺はかつての朝廷の支配下に建立されたことになる。  衣川の北側に衣川柵があって、ここに俘囚を束ねる安倍氏が拠点を置き、俘囚や蝦夷を支配していた。安倍氏自身も、俘囚の一人だ。  ところが、前九年の役(1056-1062)で安倍氏は朝廷に反旗を翻し、朝廷軍を蹴散らしてしまった。ただし、裏切りに遭い滅亡してしまう。その後、紆余曲折を経て、棚からぼた餅の形で藤原清衡が東北の支配者となり、平泉に拠点を構えたのだった。  藤原清衡の父は、秀郷流(ひでさとりゅう)の藤原氏であったが、母は安倍氏だ。清衡は蝦夷の母を持ち、蝦夷の地で育てられた。藤原清衡は、名こそ「藤原」だが、正体は蝦夷である。  藤原清衡は「東夷の遠酋(とういのおんしゅう)」と自称し、蝦夷として賽を投げ、ルビコン川=衣川を渡っている。平泉から朝廷勢力を駆逐し、衣川の南側に蝦夷の王国を建てたのだった。「藤原姓」を名乗ったのは、朝廷との交渉に有利だったからで、方便にすぎない。だから都の貴族たちは、奥州藤原氏を「夷狄(いてき)」「匈奴」と罵倒し蔑視した。

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