20年で大きく変化した「世界華商大会」

執筆者:樋泉克夫2011年9月20日

 世界華商大会(WORLD CHINESE ENTREPRENEURS CONVENTION)の第1 回大会は、1991年にシンガポールで開催された。呼び掛け人のリー・クワンユー(李光耀)は中華文化を共有する世界中の華人企業家に相互扶助と協力を説く一方、その成功経験を中国市場に注入して、天安門事件で頓挫しかけた中国の開放路線を後押しし、中国社会の安定的発展を呼び掛けた。彼は、これを「自然演変」と呼んだ。

 これに対し北京は、華人資本の投資は歓迎したものの自然演変には猛反発する。それというのもリーが掲げた自然演変が、共産党独裁体制に変化を強いると看做したからだ。一方、華人の投資が中国経済の発展を促し軍事的脅威をもたらすと看做したインドネシア治安当局は、華人と中国市場の結びつきに強い不快感を表明していた。かくして世界華商大会は軌道修正を迫られ、第2回香港大会(93年)では中国ではなく自らの居住国への投資を呼び掛けることとなる。

 以後、北京とASEAN諸国政府を刺激することを避け、バンコク(95年)、バンクーバー(97年)、メルボルン(99年)と開催地を移した。

 だが、97年のアジア危機によって「成長のアジア」が壊滅的打撃を受け、98年にインドネシアでスハルト長期政権が崩壊するや、大会をめぐる国際環境に劇的な変化が訪れる。2001年、南京で行なわれた第6回大会を、北京は財政面を含め全面的支援に乗り出す。江沢民主席は参加者への歓迎の辞を送り、朱鎔基首相は自ら登壇し大会に集う世界中の華人企業家に西部大開発への投資を熱く呼び掛ける。一方、アジア危機に直撃されたASEAN諸国政府は、低迷する経済のけん引役を中国市場に定め、華人企業家に中国市場との仲介役を求めた。もはやASEANの華人企業家が中国投資を躊躇う理由はなにもなくなったのだ。

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