混迷の時代と女王・女帝

執筆者:関裕二2011年10月19日

 日本史の原点、古代史をふり返ってみると、ピンチのたびに、女王、女帝が求められていたことに気付かされる。たとえば卑弥呼は、2世紀末、倭国の起死回生の切り札として押し立てられている。
 もともと倭国に君臨していたのは男王だったが、戦乱が続いた。そこで、卑弥呼が担ぎ上げられたのである。

卑弥呼、台与、推古天皇

前方後円墳は「女王の時代」に始まった(写真は仁徳天皇陵)(C)時事
前方後円墳は「女王の時代」に始まった(写真は仁徳天皇陵)(C)時事

 卑弥呼は鬼道(きどう)を駆使し、民衆を惑わしたという。長い戦乱によって道しるべを失った民は、神の言葉を求め、女王のカリスマ性にすがったのだろう。

 巫女は神の言葉を仲介すると信じられていた。政治を「マツリゴト」というのは、古代の神事と政治が、不可分だったからで、為政者や民が困り果てたとき、巫女の一言が、政治を動かす力をもったのだ。  興味深いのは、邪馬台国の卑弥呼と台与(とよ)、ふたりの女王の時代に前方後円墳という埋葬文化が各地で共有されていくこと、そして前方後円墳体制が終わる6世紀から7世紀、再び女帝の時代がやってくることだ。初の女帝・推古天皇(在位592‐628)が登場し、8世紀まで女帝林立の時代が続く。

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