『古事記』の不思議

執筆者:関裕二2012年1月31日

 わが国現存最古の歴史書『古事記』が編纂されたのは、和銅5年(712)のこと。ちょうど今年は、1300年の節目に当たっている。
『古事記』は日本人の心の故郷と礼讃され、聖典と崇められてきた。だが、冷静に考えると、これほど胡散臭い文書も珍しい。
 そもそも『古事記』は、江戸時代に国学者たちに「再発見」されるまで、ほとんど見向きもされなかった。
 また、もう1つの歴史書『日本書紀』が完成したのは、『古事記』編纂の8年後(720)。藤原不比等が権力の頂点に君臨している間に、2冊の歴史書がしたためられたことになるが、同じ権力者が、2冊の異なる歴史書を必要とするだろうか。しかも奇妙なことに、『古事記』と『日本書紀』は、正反対の外交方針を打ち出している。朝鮮半島南部の新羅(しらぎ)と百済(くだら)という宿敵の双方を、2つの歴史書が、てんでんばらばらに贔屓している。たとえば、新羅にとって都合の悪い事件を『日本書紀』は記録し、『古事記』は無視している。また、新羅系の秦氏の奉祭する神を、『古事記』のみ、神統譜としてかかげている。

最大の謎は「序文」

 百済と新羅は、けっして相容れぬ、仇敵であった。
 白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で、百済と倭国は、唐と新羅の連合軍の前に大敗を喫した。百済はここに滅亡し、日本列島は、唐と新羅の軍勢に危うく蹂躙されるところだった。
 百済と倭国は、唐の虎の威を借りて勝利を収めた新羅を深く憎んだ。
『古事記』が編纂された8世紀前半の政権は、百済の亡命遺民を引き受け重用している。その後、朝廷は一方的に新羅遠征を企てるなど、当時の藤原政権は、明らかに「親百済」「反新羅」であった。
 したがって、『日本書紀』が新羅を敵視し蔑視したのは当然で、不自然なのは『古事記』の方だった。
『古事記』の謎は、「序文」にある。和銅5年に『古事記』が編纂されたと言い張っているのは『古事記』の序文だけで、困ったことに、これを裏付ける客観的な史料がない。他の正史は、この勅撰書の完成を無視しているのだ。これは腑に落ちない。そのため、「『古事記』は平安時代に編纂されたのではないか」とする説まで飛び出している。
「『古事記』は元明天皇の勅命によって記された」という『古事記』序文の記述も怪しくなってくる。やはり、客観的に裏付ける史料が見あたらない。ならば、『古事記』は私的な文書だったのではあるまいか。

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