4月1日のミャンマー補欠選挙での勝利を目指し、NLD(国民民主連盟)を率いて精力的に選挙運動を展開しているアウン・サン・スー・チーは、3月半ば過ぎに、ミャンマー東北部のラシオ(漢字で「臘戌」と綴る)に現われ、2万人の聴衆に向かって「NLDが勝利しても、ラシオの華人の企業活動に不都合を与えるようなことはない」と訴えている。

 ミャンマー中部に位置し、ほぼ華人の街と化した百万都市のマンダレーから、ラシオは東北へ直線で300キロほど。さらに東北に道を取ると、程なく中国との国境の街であるムセー(漢字で「木姐」と綴る)に到る。ムセーから国境を越え瑞麗、保山、大理を経れば雲南省の省都である昆明に通ずる。いわばミャンマー中部と中国西南を結ぶ要衝であるラシオは、歴史的には日本との因縁は深い。というのも重慶に逃げ込んだ蒋介石軍を背後から衝くべく、日本軍はマンダレー、メーミョーを通過しラシオを経て昆明を目指した。途中の騰沖、龍陵などの一帯では、鬼神も慟くと形容された激戦が展開されたのだ。  

 筆者は数年前、マンダレー経由で陸路ラシオに向かったが、沿道の土産物屋や食堂、はてはガソリンスタンドまで“公用語”は中国語だった。現地で話を聞くと1980年代は人口5万人程度だったラシオだが、90年代以降になると周辺山間部などからの人口流入により30万人を突破。その大部分は中国語を話す人々だ。彼らのルーツを辿ると明代辺境防衛に派遣された兵士、明代から清代への交代期に中国中央部から逃れてきた明朝遺臣(彼らは特に「果敢族」と呼ばれる)、19世紀半ばの清朝による弾圧から逃れた回教徒漢族、20世紀半ばの国共内戦に敗れた国民党残存勢力などの末裔であり、加えるに70年代末の改革・開放以降に移ってきた人々など、時代に違いはあれ、ミャンマー領内に定着した華人が多くを占める華人の都市であり、中国とミャンマー中西部とを結ぶ経済の中心として機能していた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。