奇妙な遺跡が出現した。
 奈良県北西部、奈良盆地の西側、久渡(くど)古墳群(奈良県北葛城郡上牧町)の久渡3号墳だ。古墳時代前期初頭(3世紀後半)の造営で、一辺が15メートルの方墳(四角い墳墓)、あるいは前方後方墳(前も後ろも方墳)と考えられている。中国製の銅鏡(後漢の画文帯環状乳神獣鏡。全国で30例目。奈良県で8例目)も埋納されていたから、有力者の墓であったことは間違いない。
 残念なことに、試掘調査時に重機を用い、久渡3号墳-5号墳の埋葬施設の一部は損壊され、埋葬施設の構造、副葬品の配置がわからなくなってしまった。ただ、遺跡の価値が失われてしまったわけではない。ヤマト建国の真相を今に伝える、面白い物証になりそうなのだ。

近江・尾張で誕生した「前方後方墳」

 ヤマト建国は3世紀後半から4世紀にかけてと考えられている。その理由は、この時期に奈良盆地の南東部に、前代未聞の巨大都市・纒向(まきむく)が生まれていたこと、その纒向に前方後円墳が出現していたからだ。前方後円墳は、4世紀中に東北北部を除く日本各地に伝播し、同一の埋葬文化を共有するゆるやかな連合体が生まれたのだ。
 ヤマト建国時、奈良盆地南東部に、都市も古墳も集中していた。だから、盆地の西部から、中国鏡を埋納した古墳が出現したのは、意外なことなのだ。しかも久渡古墳群での墳墓造営は、7世紀まで継続する。これは、珍しいことなのだ。そして、久渡3号墳が前方後方墳だったとすれば、ここに大きな謎が生まれる。
 これまで、前方後方墳は前方後円墳よりも被葬者のランクが下がるとみなされてきた。だが、この常識は通用しなくなってきている。前方後円墳の原型が吉備(岡山県)で生まれ、ヤマトの纒向で発展、完成したのに対し、前方後方墳は、近江(滋賀県)と尾張(愛知県)で誕生し、前方後円墳よりも早く、各地に伝播していたことがわかってきたからだ。一時邪馬台国ではないかと騒がれた吉野ヶ里遺跡(佐賀県)でも、3基の前方後方墳が採用されていた。
 それだけではない。纒向には出雲(島根県)や吉備など、西日本各地から多くの土器が集まってきたが、数量の上でそれを上回っていたのが、尾張と近江の土器だった。纒向の外来系土器(地域外からやってきた土器)の過半数は、「前方後方墳の国」のものだったのだ。

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